2018年02月16日に初出の投稿

Last modified: 2018-02-16

まさに「文化芸人」という言葉が当てはまると思うのだが、昨今は色々な媒体、つまりテレビ、インターネット、新聞、雑誌、各種のセミナーやイベント、果ては官公庁の諮問機関等において、歓楽街によくある「紹介所」のように AKB48 レベルの女の子を並べて一端の政治や外交を語らせるという見世物が流行しているらしい。

前にも書いた筈だが、共同体にとって重要な価値観や制度を語るだけに足る見識をもつ人材というものは、その共同体の教育水準が向上すると比例して増えるのは確かだが、それは飽くまでも「教育水準が向上する」という条件が満たされている限りにおいてである。日数の割り算をどうやればいいのか知らないという「学士様」が大勢いるらしく、理数系の修士号をもっていても日本国憲法の第一条が何についての条文なのかも知らないという人が多くいるようでは、やはり出版物を書いて世に何事かを開陳するだけの見識をもつ人が、現今の出版物の膨大な点数として数えられるほど比例して日本に大勢いるとは思えない。つまり、日本の出版物というものは、それを書く人間の見識なり知性が上方に硬直していることを隠したまま乱造されているのであり、そんなものがどれほど数多く出版されたところで、551の蓬莱のアイスクリーム宜しくその場で消費されたら終わりの話であり、人々の知性や教養を引き上げる役には立たないのである。同じように、見た目だけで取捨選択しても大差ないくらい、政治や行政や経済について一定以上の見識をもつ人材が日本に溢れているとは到底思えず、上記のようなキワモノとしてのセールスポイントを優先した文化芸人に政治や経済を語らせる(そして発言に瑕疵があると「庶民感覚」などと弁解する)のがマスコミの習い性というものなのであろう。

よって、僕の提案としては、まず大学教員には可能な限り多くの専門家の知見を集めて厳格な基準を立てること、そして基準に満たない出版物を学界内の人間関係という馴れ合いだけで取り上げたり推薦したり学科のテキストに採用しないという見識が求められる。簡単に言えば、大学のなんたるかを大学教員こそが体現するべきであって、学者自身が情実に埋没してしまったら、大学に入る人々も同じように知性の上方硬直性に打ち勝てなくなる。かつて中国思想史の小島祐馬さんは官僚から登用したいと請われたときに「畑を耕すのに忙しくて、そんな暇はない」と断ったという逸話を残しているが、同じことを全ての学者に求める必要はなくても、そういう気概くらいは求めたいところだ。また、再販制度と委託販売制度にシャブ漬けとなっている出版社が自転車操業を続けるために劣悪な書籍を乱造し続ける状態を改めるには、やはりこれらの制度をまじめに独占禁止法や(適正にコントロールされた)市場原理に照らして廃止しなくてはいけないと思う。そして、同じような仕組みはテレビや新聞を始めとする他の媒体にも適用されるのが望ましく、そのためには少額決済を低コストで実現し、小規模の出版社やテレビ・ラジオ局や新聞社などでも良質なコンテンツ(芸人に政治や経済を論じさせたり、アイドルに哲学を語らせてもいいが、どの媒体もそういうネタがなければ食べていけないような状況では困る)を提供すれば適正に経営できるようにしなくてはならないだろう。

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