2018年06月20日に初出の投稿

Last modified: 2018-06-20

「内側」「外側」は、閉鎖空間または少なくとも三方に壁、柵、格子、金網、「黄色い線」などのある場所でしか意味を成しません。「真っ直ぐに引いた線の内側」というものは存在しません。「向こう側」か「手前側」ならありますが。

黄色い線の内側

明解な推論だとは思うけれど、僕はこの推論は前提が間違っていると思う。

駅のプラットフォームは、上り方向の端、下り方向の端、そして線路側へと区切られていると空間認知するのが自然と思われ、「プラットフォームでの内側」と言えば線路側とは反対の方向であると仮定したアナウンスを聞かされても、混乱するような人は殆どいない(それゆえ、ゲームの Lemmings みたいに線路側へ飛び込むバカはいない)。三方とも明白な落差があり、しかもたいていは落差に向かって注意して立つものだというのが常識なので、内側や外側の概念は身体の向きとしても習慣づけられていると考えてよい(前方を「外」と見做しやすいのだから、なおさらだ)。

しかし、中国語では線路側の意味になるという話は、次のような実例がある。

「白線の「内側」でお待ちください」http://www.ch-station.org/uchida_05/

「東西南北などの「絶対方位」に対して、「内外」や「右左」は「相対的方位」であり、どこを基準にするかで指す場所が異なります。しかも、民族や年代によっても、その「基準」が異なる場合があるのです。」

したがって、一部の中国人が「内側」と聞いて特定の方向、しかも多くの日本人とは(少なくとも)違う方向だと理解するというのは事実なのかもしれない。だが、この人物が説明しているのは「中国人にとっては『白線の内側』とは線路側になる」という結論の繰り返しであって、これは何の論証にもなっていない。

小島さんにしても、上記の記事を書いた関大の内田さんにしても、ブログに記事を書くていどのことに学術研究者としての論証というスキルを駆使することが、それほど難しいことなんだろうか。小島さんは単に自分が見聞きしていないことは存在しないと言い、内田さんは何の証拠も無いことを事実であるかのように言う。どちらも単なる論理的に初歩的な詭弁で、僕が教養課程で初等的な論理学を教える教員なら、両者に単位など与えられない。

これは想像に過ぎないが、白線や黄色い線を何らかの対象として我々に相対する何かだと仮定すれば、それらの内側が「線という対象にとっての内側(線路側)」だと理解されても不思議ではない。このような仕組みを説明するのが論証であって、オラそういう中国人っぺを見たダ、オラ見てねぇなどと、認識論的田舎者どうしでお喋りしても真理どころか事実にすら到達などしない。

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