Scribble at 2018-06-19 21:49:45 Last modified: 2022-09-27 09:49:55

山納 洋さんは、カフェ・マネジメントの専門家としてご存知の人も多いと思いますが、山納さんはまち歩きの達人でもあります。自ら「Walkin' About」というまち歩きイベントを企画し、これまで50カ所以上で実施してきました。

今回は山納さんにまち歩きを通じて見えてきたこと、まち歩きの神髄についてお話ししてもらいます。

またこちらもまち歩きの経験が豊富な岸田文夫さんにコメントしてもらい、まち歩きについて理解を深める機会にしたいと思います。

2018年第5回都市環境デザインセミナー なぜ「まち歩き」をするのか

当サイトで提唱している「歩行論」は、もちろんこういう気楽な、或る意味では「腑抜け」と呼んでもいい着眼点も採用できる。ただ、僕は現行の都市計画論は非常に偏っていると思うので、敢えて「サバイバル」という着眼点を強調しておきたい。もちろん都市計画をやっている一部の人たちは僕と同じくサバイバルという着眼点を持ってはいるのだけれど、残念ながらそういう人々が主張や理屈や提案として表に出してくるのは、アクセシビリティや universal design という福祉の観点に止まっているので、なおさら別の視点を強調した方がいいと思っている。

都市、とりわけ大阪の路上という、健常者にとっても危険な一帯をどうやって安全に歩くかという課題は、誰にとっても切実なテーマになりうる。つまり、狭い道を連れ立って歩く「愛する二人」に道を譲らねばならない子供連れの親とか高齢者とか、あるいは子供連れの傲慢な家族一同に道を占拠される他の通行者、あるいは日本が常識的に左側通行を対面交通原則にしていることすら知らずにやってくるチンピラ外国人に道から追い出されかねない老人、いやそれ以前に公道を譲り合うという知恵(これは道徳やマナーではなく、トラブルを防ぐために培われたことだと思う)すらないアメリカやフランスの野蛮人どもなどなど。

これらの人々に何かを伝えたり教えることなど不可能であり、またそんなことを我々が凡人同士でやる必要などない。そんな「国際交流」に価値や効果などない。必要なのは、自らリスクに気づいた人たち(言っておくが、そういう人々が「偉い」とか「上流の人類」だと言いたいわけではない)から率先して相手や自らの行動の危険を回避することである。そういう人が増えることによって、一時的には無自覚なバカが往来で虚勢を張って歩くような状況が生まれるにしても、自らリスク回避できない無自覚な者どうしが衝突してお互いに疲弊したり、あるいは無自覚な者が優先的に交通事故などで現世から退場し「文化的に淘汰」されることによって、長期的には自覚をもってリスクを回避している者が有利になると期待したい。そういう期待ができないなら、社会科学など昆虫の集団生態学と何も変わらないだろう。

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