Scribble at 2022-04-22 22:06:55 Last modified: 2022-04-23 00:42:44

テクノロジーの進化が目覚ましい昨今、時代の流れの速さに困惑しているビジネスパーソンは多いだろう。特に、テクノロジーによる人生への影響度について教育を受ける機会がないため、この時代に合ったキャリア形成には何が必要なのか、不安を抱えやすい時代になっている。この不安を解消しないままキャリアを歩めば、テクノロジーの時代から大きく後れを取り、不慮の波に飲み込まれるリスクが高くなることで、まさに「時代遅れ」なビジネスパーソンとなってしまう。こうなる前に、不安を科学的な4つのレベルに分解する必要がある。そしてステップを踏みながら冷静な思考を取り戻すことで、未来を見据える思考力を養うのだ。ここでは、その思考法と、テクノロジーとのあるべき付き合い方を解説する。

MBAエンジニア/Tech系YouTuber 倉嶌 洋輔

MBAエンジニアが教える「時代遅れな人」と「最先端を行く人」の決定的な違いとは

こういう話が日本独特でばかばかしいのは、多くの人々が "MBA" というものを正確に理解しておらず、雑に経営関係の資格とか専門家の証明書みたいなものだという先入観をもっているからだ。しかし、現実に修士号をもっていて、さらに国公立大学の博士課程に進んだ人間から言わせてもらえば、MBA つまり修士なんて「学者の卵」とすら言えず、学位を得た学術研究分野の専門家であると言うことすら、多くの国では恥知らずだと見做されるような身分でしかない。これは学歴差別でもなんでもなく、学術研究の権威や正当性の根拠とは、そもそもそういうものでしかありえないのである。よって、こういう人々が学術的な水準で言えば素人の自費出版と同じていどの本を専門家と称して販売しているのは、"Japan" とか呼ばれている東アジアの文化的辺境地域だけに見られる風習だと言ってよい。せっかくインターネッツだのアイフォーンだのと素敵なおもちゃを手にして、しかも学者の多くは外国語のご本を翻訳したり読んだ感想文を書くことだけが仕事であるくせに、外国の常識や知見や水準を知っていながら、いまだに身の程を知らない人々に啓発活動を丸投げして、こういう国際的に恥ずべき風習を続けて改めようとしないのだから呆れる他にない。いちど、中国かロシアにでも100年ほど占領されてみてはどうか。

ともあれ、どうして日本では何事についても専門的に解説したり本を書いたりする役割について、その基準のハードルを常に下げようとするのだろうか。どういう専門分野であろうと、それについて専門家つまりプロフェッショナルの見識が或るていど保証された立場で語るには、海外の大多数の国では博士号の保有が常識的な条件である。日本だけが、どういうわけか修士や学士ていどの鼻くそ同然と言っていい見識だけで専門家を気取って本を書いたりテレビで意見を言ったりする。おそらくだが、これもまたこの国で独自に展開してきた ersatz democracy とか ersatz equality の観念にマスコミや官僚が引きずられている証拠なのではないだろうか。つまり、勉強不足や博士の学位を持っていない人間にも専門家としての発言権を与えることが「平等」であり、「民主的」だという錯覚があるからなのだ。簡単に言えば、いかに東大でも学卒集団が教育行政をとりしきって、無見識で無能な人々が出版やジャーナリズムを担っていれば、その国は必ず〈かような状況〉に劣化してゆくという明々白々な実例であるように思える。

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