Scribble at 2024-08-02 10:25:36 Last modified: 2024-08-02 10:31:08
2011年7月15日にオープンしたノンフィクション書評サイトHONZ。本日2024年7月15日をもちまして13年間のサイト運営に終止符を打つこととなりました。
他のブログ記事で、この『HONZ』という書評サイトの運営が終わるという話題を知った。そして、こういう書評サイトがあったことを初めて知った。おそらく、読書家と呼ばれる人々からすれば「寡聞にして知った」とか「お恥ずかしながら知った」と書くべきていどには有名なサイトだったのだろう。でも、読書そのものではなく、読書も利用して学問を続けたり生活するという、実は本や雑誌や新聞のまともな運用をしている人間としては、こういうサイトを知らなかったことに何の恥ずべき理由も思い当たらないわけである。
もちろん、僕は書評が不要だと言っているわけではないし、書評サイトが不要だと言っているわけでもない。実際、いまも『荒野に向かって、吼えない…』という書評ブログの記事を読んでいたところだし、このブログに掲載された記事をきっかけにポール・オースターやルシア・ベルリンの小説を読んだりしたわけであった。でも、もちろん僕は書評サイトや書評ブログを渉猟することに意味があると思ってはいないし、それが学術研究者、なかんずく哲学者の職責だなんてまるで思っていない。なので、知ってることは知ってるが、知らないことは知らないというだけのことでしかない。そして、僕は学問というのは本質的に private language と造語によるモノローグで「意味」や「真理」を内製するデザイン会社のようなものではなく共同作業なり分業だと思っているので(つまり学術研究の「成果」とは、論文や書籍や製造物などの物ではなく、敢えて言えば現象とか状況なのである)、知らなければ知っている人が代わりに何かすればいいし、それを知っている人がするかどうかは各人の見識や事情や興味にコミットメントが委ねられている。誰も書評サイトを読むことを強制されないし、いわんや特定のサイトを利用することが学者や思想家として求められるなんてことがあるわけないのである。だって、簡単に言うと、このサイトって日本語が読めない人には利用できないじゃん。じゃあ、その人達は学者や思想家ではないのか、その資格がないのか? そこまで傲慢なサイトの運営者は、まさかいないだろう。ということで、この程度の情報がないことをもってして「知識がない」などと言われる筋合いはないわけである。
ただまぁ、利用できるチャンスがあったら利用してもよかったとは思う。ここに掲載されている書評を僕は1本も読んでいないし、またこういう落書きを書いているからといって読むつもりもないわけだが、何かのチャンスがあって読む事情ができたのであれば、利用することに何の躊躇もないし不安もない。だって、書評で取り上げられている書籍の価値は書評を読んでも分かるかどうか不明だが、書評そのものについては読まないと価値が分からないからだ。したがって、こういうサイトが無くなってしまうことについては、そういうチャンスが無くなってしまうわけだから残念という他にない。でも、それは価値があるから残念だという意味ではない。
ということなので、僕のような自宅に数千冊の蔵書を抱えている人間でも(たぶん有名なのであろう)書評サイトを全く知らないということがありえる。これも、一つの fragmentation なり segmentation だと言える。なにも、人がアクセスしているウェブ・コンテンツの「島宇宙」というのは、イデオロギーやエコー・チェインバーによって分断されるだけではないのだ。人が、能力としても興味の強さや広さとしても有限である他にない以上は、本を読む習慣があったり、一定の学歴をもっていたり、それどころかこれらに更に加えて出版業界にいたことがある僕のような人間ですら、書籍にまつわるあらゆるコンテンツにアクセスしたり知っているわけではないのだ。こんなことは、僕がどれほど天才あるいは凡人それとも無能であろうと、人である以上は当たり前であろう。