Scribble at 2022-05-28 22:37:06 Last modified: 2022-05-29 22:42:07

Pokemon Go is a huge security risk

Pockemon Go というスマートフォンを使った AR のゲームがあった。2016年に、任天堂と Niantic の共同プロジェクトとしてリリースされて、それまでに Niantic が運営していた Ingress というゲームで積み上げたノウハウを応用したゲームとして、大きな話題となったのを覚えている人も多いことだろう。というか、みなさんはこれをインストールして、当時の電通関西支社や南の堂島アクシスビルの前に出現した「ジム」を利用すべく、いい歳をして夕方の17時頃になると続々と集まってきたバカの一人だったかもしれない。バーカ。

そして、もちろん誰も覚えていないし Twitter で見たことすらないだろうけど、僕は当時の @philsci というアカウントで、Pockemon Go はアプリケーションとしてリスクがあるだけではなく、そもそも人類の現時点の社会生活は AR を応用した位置情報ゲームを安全に誰もがプレイできるような水準に達していないという理由で、このようなサービスは交通事故を増やす恐れが高く、また他人の迷惑を無視して〈公の権利としてのプライベートなふるまい〉というセカイ系のクズのメンタリティを正当化する免罪符や錦の御旗でしかないという論陣を張って、イノベーションが世界を救うなどと正気でゲームを擁護していた日本の若造プログラマーと論争になったこともあった。そういえば Twitter では、他にもコピペで国史の本と称する紙屑を市場にばらまいた恥知らずな構成作家をおちょくった一件もあったし、バカげたサービスだか事業を「BOP (the bottom of piramid) ビジネス」だと書いて、BOP ビジネスを「搾取」の別称だと勘違いしている愚かな人物に絡まれたこともあった。いまとなっては、Pockemon GO もコピペ構成作家も記憶にすら残ってない事業も、すべてどうでもよいことだが、東アジアの辺境国家でメディア運営やマスコミやジャーナリズムと自称する暇潰しに従事する連中は、いまだにそうした些事を飯の種にしているらしい。

特に、Pockemon Go については当時の開発者を神格化し、アジア、とりわけ日本にもスティーブ・ジョブズがいたと言わんばかりの本や記事を続々と送り出している。そうして、未熟な若造エンジニアとか二束三文の起業家が無能であるがゆえにコンプレックスから抱く、安っぽいナショナリズムを補完するようなファンタジーをばら撒いているわけだ。まったくもって恥を知れとしか言いようがない。

明々白々すぎてここに書くことすら面倒臭いほどの事実を繰り返そう。つまり、こんなものを世界中で何億人がプレイしたところで、ロシアの軍事侵攻一つ止められるような世界にはならかったし、任天堂と Google の株主が泡銭を手にしただけだったではないか。これ以外に、こんなクズみたいなゲームの成果として何があったというのか。

これがきっかけで結婚したり就職した? おめでとう。それで、君らは結婚や就職はともかく、実際のところ、そこから何を貢献したの? 結婚や就職そのものが重大な(つまり他人を含めた社会にとっての)成果だなんて理屈は、1980年代以降に文化的後進国で流行し始めた、恋愛や就職こそが人生の〈公式の〉勝利条件であるという、或る意味では「国策」とも言える大規模な錯覚あるいは集団催眠でしか正当化できない。つまり、就職は官僚や広告代理店からすれば「金の入口」の話であり、結婚は「金の出口」の話である。そうして、古来から強力に継承されてきた家庭や家を経済という点で回しつつ運用するための、結局は金の入口と出口を短絡的な価値観で制御できるようにするのが国内市場を(制御可能なまま)安定させるための秘訣というものだ。

そこでの成功と失敗の違いが人生の〈意味〉として最も重大であるという錯覚を植え付けることで、家庭はどうしてもそこでの成功に集中するための投資をするようになる。受験産業なり、大学入試なり、そして就職情報なり人材紹介なりといった事業を安定して維持するには、若者の価値観を恋愛と就職の2点に短絡させて、せいぜい大学入試から結婚に至る10年くらいの間に本来は不要な筈の出費を促す必要があるのだ。ゲーム開発・運営なんていう8号営業の風俗業が堂々と普通の仕事として許容されているのも、そういう制度的な仕組みの一つとして有効だと認められているからに過ぎない。そういうものにすぎないのだと割り切ってゲームに興じるのはいい。僕だって、いまだに MMORPG のプレイヤーだ。そんなことはもともとゲームの刹那的で享楽的な効用なのだから是非の議論など不要だろう。しかし、それを超えた価値があるという議論は、もちろん昨今の「分析~」というラベルで哲学ができると錯覚している若手の大学教員がそうであるように、無能な人間の暇潰しとして好きに調べたり議論するのは勝手だが、社会科学の初歩的な素養の問題として、いい加減に自分たちのやってることが明白に子供じみていたりスノッブでしかないというくらいの自覚をもったらどうなのかと思う。

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