Scribble at 2024-06-04 13:24:27 Last modified: unmodified
これは大学に入る前の、哲学について、というよりも哲学で扱われているようなテーマについて取り組もうと思っていた頃からなのだが、やれ構造主義とポスト構造主義だの、分析哲学と現象学だの、経験主義と合理主義だの、あるいは僕が専攻している科学哲学でも科学的実在論と反実在論のような対比も含めて、この手の党派的な比較にまつわる批評だとか批判だとか論評の類というのは、それがわれわれの携わっている哲学なり学問なりにおいて、具体的に何かへ迫るための堅実な一歩になるというならともかく、他人、ましてや一般読者への体裁という動機や目的しかないと思えるような、はっきり言って哲学的には無意味なクズ議論みたいなものがあまりにも多すぎるように感じた。
僕は、もちろん大学では「分析系」と呼ばれる戦後の英米を中心に展開してきた哲学のスタイルを学んできたわけだが、高校時代はデリダやフーコーなどを読んでいたし、学部時代にもフッセルやメルロ=ポンティやサルトルに関連する著作からも多くを学んだし、もちろん古代ギリシアから現代に至る、あらゆる時代の人々(哲学だけに限ったことではない)から、そら東大暗記小僧どもに比べたら分量は少ないにしても、多くを学んできたと思う。量子コンピュータを議論するのに中世の議論を参考にしてもいいし、AI の情報倫理を議論するのにプラトンの著作を糧にしてもいいわけで、同時代の同じ分野だけにとどまらず、同時代の異なる分野とか、異なる時代の同じ分野とか、あるいは異なる時代の異なる分野の成果を可能な限り利用したり参考にして議論することが哲学に何らかの期待をかけてコミットしている者の取り柄でもあるし、逆に責任でもある。よって、僕はこの手の党派的で生産性のない議論というのがとにかく嫌いで、よく師匠であった竹尾治一郎先生の著作にも似たような表現を見つけては「なんだこりゃ?」と思っていたものだった。あれほど是々非々でものごとを判断できる先生ですら、「ノエシス・ノエマ光線」などと、現象学のアプローチをおちょくったりすることもあるわけだ。確かに、指向性なり志向性というものはアンスコムの intentionality なども含めて認知能力の雑な記述である可能性があって、こういうことは哲学で何かを議論して分かるようなことではないというのも見識であろう。しかし、それが仮に認知科学や知覚の心理学で解明される身体の特性だとして、それをどう議論したり表現するかは、科学だけの問題であるとは限らないからこそ、「言語分析」哲学というものが一つの思潮として説得力を持っていたのではなかったか。
もっと簡単に言えば、ポパーの「世界III」というアスペクトを仮定した成果なり評価が成立するという前提なくして、およそ分析哲学なんてありえないのだ。そして、人が科学であれ文学であれ、記号なり言語でものごとを定式化し表現しコミュニケートしている限りにおいては(もちろん何年か後には無線通信でデータを飛ばして或る種のコミュニケーションが成立しているのかもしれないが、それでもデータ通信だってビットに変換された記号の送受信にほかならない)、その仕組が科学や技術で成立していようと、内容まで全て科学や技術であるというわけではない。仮に僕が或る風景を眺めて綺麗な夕陽だと感じて、それを僕の連れの脳に無線で通信したとする。その時代のテクノロジーにおいては、データを受け取った連れにも同じ景色を眺めているのと全く同じ視覚データが VR の画面を眺めるように与えられるだろう。でも、夕陽を眺めた視覚データに加えてさらに、僕が綺麗だと感じたという感情まで送信してしまうと、これはもう連れ合い自身が感じている感情ではない。その風景を僕が眺めたのと同じように眺めたとしても、それだけで他人が同じ感情を抱くとは限らない。それを、通信したデータによって受信側の人に自動で同じ感情を起こさせるのであれば、もうそれはデータを受け取った彼女自身の感情ではあるまい。こんなことが、もし「コミュニケーション」の正確な未来なり理想なのであれば、もうこれは殆ど『スター・トレック』の Borg と同じである。