Scribble at 2024-06-04 19:19:25 Last modified: 2024-06-05 08:29:22

もう20年以上も前の話なるが、長らく東大で物理学を教えていた和田純夫さんという研究者と個人的にメールをやりとりしていた時期があって、僕は神戸大学の大学院で博士課程の2年次だったかと思う。そして、当時は和田さんも出入りしていた、例の「黒木掲示板」では、いまから思えば実質的に「文系の愚かな議論」を丁寧に分析するという、歌舞伎の型みたいなことをして嘲笑うという醜悪な暇潰しをやっていた。そんなことをして、自然科学としても、あるいは自然科学のアウトリーチとしても役にも立たないことをしていたのだから、あれは明らかに暇潰しであろう。

ただ、その中で出会った和田さんとは幾つかのメールのやりとりで気になっていたことがある。それは当時のああした「理系」の掲示板で弄ばれたり非難の的になる玩具だった、大森荘蔵氏や村上陽一郎氏の微分について書かれた議論である。要するに、微分というものは数学者が考案した「ぺてん」であり、概念的なイカサマであるというわけだ。なぜなら、あれは極限という考え方を基礎にしていて、極限というのは自動車が一定の速度で一定の時間を走るという状況における「瞬間速度」のことだからなのだが、ではその瞬間速度とは何かというと、時間の間隔をどんどん短くしていって、極限としての0における値のことだという。しかし、時間が0であれば、速度というのは一定の時間に一定の距離を走ったことから算出する値なのだから、時間が0なら、その車がどれだけ走ろうと計算した答えは0になってしまうのではないか。だって0秒のあいだに走った距離は0メートル、つまりぜんぜん走っていないからだ。これを極限などと言って時速何メートルなどと言うのはペテンであるというわけだ。

もちろん、彼らとは異なる思想で科学哲学に従事している僕としては、こういう妙な科学哲学者の議論こそ、概念を使った一種のペテンでありイカサマだと思うのだよね。つまり、現実に車が走るという現象と、極限という概念を前提にした計算なり演算という操作とを、議論の中で都合よく置き換えているからである。僕らのように unreasonable applicability of mathematics というテーマを真面目に考えてきた科学哲学者にとっては、これらを混同したり議論の中で都合よく置き換えるなどということは考えられない。そんなことは、脱構築などと御大層な批評をされなくても、科学哲学者として科学哲学の議論の範疇で正しく斥けられてしかるべきクズ議論なのだ。

車が一定の速度で走っているのは、数学としての極限や微分という計算によってではない。そんなのはあたりまえであろう。単にガソリンを使った内燃機関や電気モーターの回転という動力によるのである。車は質点でもなければデカルト座標上の点でもないのであって、車が走る様子は微分だろうとなんだろうと数学の或る理論を仮定して議論している一つの「モデル」(もちろん、僕が言っている場合は model theory の意味で言うモデルだ)なのである。したがって、現実に起きるあれやこれやの現象を、数学の理論あるいは極限のような概念だとか記号操作によって、的確に分析したり、その挙動を予測できたりするという現実にこそ、まずは関心の目を向けて考えるべきなのである。それらがそれぞれの脈絡における意味では食い違っているからペテンだなどと言っても、「扱うための脈絡が違うんだから、あたりまえだろう」という話でしかない。僕らは、どうして脈絡の違う「物体の移動」と「数学の計算」とで理解や予測といった橋渡しをしつつ有効な取扱いができたり思考に役立てられるのか、いやもう少し正確に言うと、物事のありさまを物理的に解釈したり表現するにあたって、なぜ数学という形式や表現を使うと(少なくとも僕らの認知能力において)「有効」なのかということを哲学者として考えるべきなのである。そして、これは何も物理学や数学がどちらも物事の真理やリアリティに対応して正しいと単純に仮定しているわけでもないし、両者の学問のうちどちらが正しいとか偉いとか深いとか、そういったヘゲモニーのようなガキの政治みたいな話とも関係がない。

それから、これは日本の科学哲学というプロパーの業界話みたいになるから余談にはなるのだけど、僕は村上氏や大森氏のような人々、つまり日本で科学についてものを書いている哲学プロパーには、微妙な違和感を持っている。それは、彼らがこうした議論を、専門的な学術雑誌、たとえば僕が所属している日本科学哲学会の『科学哲学』だとか、あるいは僕は所属していないが他にも『科学基礎論研究』という学術誌もあるんだけど、こういうものには全く発表しないで、いきなり単行本とかに上のような「微分はペテンである」みたいなことを書いちゃうわけだよ。あるいは、具体的に言うと村上陽一郎氏だと『時間の科学』(NEW SCIENCE AGE 20、岩波書店、1986)という通俗本にこの話が書かれていて、これはどこかのカルチャー・スクールで喋った内容をテープから起こした原稿に手を加えたものらしいから、要するに大学の講義じゃない色々なところで話しているわけだ。そら、大学教授なり有名人なら、たとえ反ワクでも Q アノンの信者でも勝手に市民講座と称して喋ってたりするんだから、こういうことはよくある話だけど、科学哲学ではこの村上氏と大森氏がマスコミのお気に入りなんだよね。で、それはいい。学会とか自分が所属する分野の広い意味でのアウトリーチだと割り切って、文化芸人としていくらかの小遣い銭をもらいながら暇潰しに時間を費やすのも、一つの生き方なのかもしれない。ただし、哲学者としての生き方かどうかは疑問があるがね。

で、これが本当に科学哲学という分野のアウトリーチになってるかというと、僕にはそうは思えない。どうしてかというと、彼らのような人々が書いている、「科学論」とか呼ばれている雑な科学の茶飲み話を読んで大学に入ってくる学生だとか、あるいは科学哲学の専門的な本を読もうとする人は、僕が神戸大学で学部の授業の TA をしていたときにも何人かの学生から聞いたんだけど、大森氏や村上氏の本などが展開する「科学論」と、授業で教えられる「科学哲学」とでは、背景知識としての自然科学や科学史は共通していても、実際に議論していることには大きな開きがあって、大学の授業にはなかなか興味が持てないという。そら、「微分はペテンである」なんて話を読んで大学に入ってきた人のために授業をしているわけではないのだから、そうもなろう。どちらかと言えば、大森氏や村上氏は大学で教えている科学哲学の議論に疑問を感じるようなところへ至ったからこそ、ああしたものを書いているのである。彼らが疑問を覚えるようなきっかけを作った、まさにスタンダードな科学哲学を学生に教えようとしても、学生はそれを否定したり疑問視するような本から入って科学哲学に興味をもっているので、そら受け付けないわな。(彼らにとっての)「間違い」を学んで何になるのかというわけだから。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る