Scribble at 2024-06-01 22:28:53 Last modified: 2024-06-02 19:35:24
吃音の難しさは、第一に当人にとっての曖昧さだという。身体障害なのか、それとも発達障害なのかが明確になっていないという状況で、自分自身にとってどういうものなのかが分からないという人もいるようだ。したがって、中には吃音は個性であると考えて、治療したり何かの訓練をしようとする必要はないと考える人もいる。しかし、それでは辛いという人が多いことも事実であり、一口に吃音と言っても周りの対処も合理的配慮に求められているのと同様に、ケース・バイ・ケースであるという。
そして第二に、吃音は特に「相手があってはじめて『障害』になる」ということだ。たった一人だけで生活できるなら、吃音は問題にならない。相手に何かを伝えなくてはいけないのに、うまく伝えられないというジレンマがあって、そして相手も自分の様子を見て接し方に戸惑うという状況へ至る。そして、これまでは安易に解雇して職場から遠ざけたり、必要以上に叱責するなどの対応をとって、北海道のカレスサッポロという病院で起きた一件が報道されているように、吃音者を自殺に追い込むようなケースが起きてしまう(ていうか、このケースについて調べてたんだけど、新聞サイトの記事って無意味に削除されるから、Wayback Machine でしか読めなかったりするんだよな。これが、他人のプライバシーを平気で踏みにじる特権をもっているかのように振る舞う報道機関様のやることなのかね)。
ということで、障害とか戦争とかターミナル・ケアとか、ともかく何かを考えさせられるとともに、やはりいくらか陰鬱な気分になってしまう著作を読むことが多くなったように思う。蔵書を処分するという気分には、やはり自分には何か時間が多くは残されていないという気分のようなものがあるせいだ。もちろん、その残り時間は30年かもしれないし10年かもしれないし、ひょっとすると1年以内かもしれないわけだが、なんにせよ有限であることは変わりないわけなので、TMT はともかくとして、しっかり何かを学んで考えておきたいという僅かな意欲はある。
なお、本書は既に文庫本として再刊されているので、これから読むなら文庫本を手に入れるようお勧めする。
それから、企業で情報セキュリティのマネジメントを拝命している者として注釈しておく。僕は上の段落で、特定の事案について北海道の病院名を具体的に書いた。企業や団体が関わる事案を公に語る場合、よくある反応として、「そこで働いている従業員に罪はない」という人がいる。でも、僕はそれは間違いだと思っていて、それゆえ過去にもビッグモーターの事案では元社員に転職先は無いものと思えときついことを書いた。もちろん、彼らの大半は会社が解散しても転職するところは見つけるかもしれないし、ご承知のとおりいまのところ多くの社員は転職などしなくてもよくなった。伊藤忠などが支え直して WECARS という名前の会社として、ひとまず法人としては再建されたからだ。でも、僕は会社でも軍隊でもアカデミズムでも、いや国家の規模ですら、一部の「悪者」が全体を統率して駄目にするわけではなく、やはり組織を構成する全ての人間が少しずつではあれ支えていたり放任していたりして、愚かな組織は存続してしまうのだと思う。よって、全ての従業者と執行者と株主(たとえ派遣社員やアルバイトだろうと内部通報はできるのだから)に何らかの責任はあろうと思う。もちろん、だからといって簡単に連帯責任だと言って役員やキチガイ創業者の「罪」を過小評価しようとは思わない。他の全ての従業者に責任があろうと、それでトップ・マネジメントの責任が従業者の数だけ減るわけでもないし、他の従業者と合わせて平準化されるわけでもないからだ。よって、ビッグモーターの創業家が「ビジネス的に死刑」となるのは当然である。というわけで、当時の病院で働いていた、たとえば清掃係には罪がないだろう、よって病院名を書くと彼らが「不必要に」働きにくくなるのだから、過剰な情報公開ではないのかという理屈は通用しない。少なくとも企業で情報セキュリティを扱い、そして自分自身についても同じ扱いとなってもいい(要するに弊社で何か事故や事件が起きたら、経営会議のメンバーとして同じように扱ってもらってよい)と考えている僕には通用しないのである。
もちろん、ここから類推して戦争についても同じことは言える。確か、呉智英氏が南北朝鮮と日本との関係について、100年ほど経過したら過去の罪は問わないように「すればよい」などということを書いていたと思うが、こういう封建主義を奉じている人物ですら、浅薄なことを考えてしまうという一例だろう。では、どうやってそんなことに「すればよい」と決めるのか。ふつうは国家どうしの取り決めであれば条約だし、国家のグループであれば協定だとか国連の憲章ということになるわけだが、そんなものに現実的な拘束力がないことは、いまやイスラエルやロシアや中国や北朝鮮で行われていることを見れば子供でも分かる。それから、少なくとも韓国と日本では過去の罪を蒸し返さないようにしようと協定を交わしているのである。それにもかかわらず、いまでも韓国の人々は世界中の国で慰安婦像を設置しようと活動しているし、当時の日本政府や日本企業などを相手に訴訟を起こし続けているわけである。もちろん、そこには政治的な別の意図や利害関係や妄想あるいは国際法についての無理解など、彼ら自身の色々な欠陥や問題もあろうと思うが、しかしそもそもそんなことが延々と続いている原因を作ったのは、どう考えても我が国の過去の愚行なのである。そして、それが「愚行」であると言えるのであれば、その責任は、保守としての僕の考えでは、「日本」という国が存続している限り(国際法としてはともかく)永久に残ると思う。それゆえ、僕らはそういう責任をもつ者として過去の出来事を学び、そして同じ愚行を(他国に対しても、それから日本国民に対しても)繰り返さないようにするにはどうすればよいか、そして繰り返さないような生活なり投票行動は何かを考え、判断し、実行する責任があるのだ。