Scribble at 2022-07-10 16:11:54 Last modified: 2022-07-12 17:13:03

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「『幡多日記』を読む」という論説に登場する地名をプロットし終えて(『幡多日記』で言及された全ての地名とは限らない)、あらためて『羽田紀行』に登場する地名を調べなおしている。やはり「可武夫究(かむぶく)」あるいは「紙帒嶽(かむぶくろだけ)」と表記されているのがどこなのか気になるからだ。文章によると、鹿持雅澄ら一行は「少焉にして山を下り、山の名を土人に問ふに、『可武夫究』といふ」(景色を楽しみつつ歌を詠んだりして暫くすると山を下りた。その山の名を地元の者に尋ねると、「可武夫究」と言うそうだ)と書いているから、この可武夫究という山に雅澄らは登っていたわけである。

この可武夫究という山が、朝倉神社の南にある古城(朝倉城跡)から鍼木(現在の針木)まで進んだ雅澄らから見て、この土地の北にあったのか南にあったのかが一つのポイントだろう。そこで、可武夫究を下ってからの行程を追うと、「橘渓」という名がある。具体的な地名なのか、ミカンの木が多い谷のことなのか不明だが、針木という地域の山であれば、いまでも柑橘の木があるのはもちろん、ここ最近では「新高梨」という品種が生まれた梨の有名な産地でもあるらしい。それから次に、「芳峠」(これも具体的な地名なのか、若草の香りがする峠という意味なのか不明だが、雅澄らが旅したのは旧暦の9月14日つまり新暦の10月19日だから、実際に若草の香りがしていたとは思えない)を越え、「橐糧を開きこれを喫ふ」(袋に入れた昼飯を食った)あとは「竟りて山に傍うて左折す」(食べ終わったら山に沿って左折した」とあるため、もちろん雅澄らは西の方角を向いて歩いている前提なので、左折したということは南へ向かったことになる。そうしてから「南行すること数百歩にして、羽田水道の滸に出づ」(南へ数百歩ほど進むと、羽田水道のほとりに出た」となっている。ここで「羽田水道」と呼ばれているのは、現在で言う「吾南用水」のことであろう。つまり八田堰でたくわえられた仁淀川の水を、現在の高知市春野一帯(旧春野町)に通すための用水路である。それから「流れを泝りて大堰の所に至る」(流れをさかのぼって八田堰に着いた)とあるから、雅澄らが鍼木一帯から南の山を登っていたのではないかという推測ができる。もし鍼木一帯から北の山を登っていたなら、羽田水道へ出るまでに再び鍼木一帯の南にある山を登る必要があり、それについて何も書いていないのは不自然に思えるからだ。もちろん、一行が北側の山を登っていたと仮定して、そこから鍼木のどこかへ下るまでの工程が「橘渓」であるとし、そこから再び「芳峠」を超えて休憩したとも読めなくはないので、やはり付近の記録や地図といった資料がないと確証は得られない(なお、八田堰が目的なら、どうして鍼木から南下したのかと思うかもしれないが、「羽田紀行」の冒頭に「羽田大堰に逍遥せんとす」とある。そのまま受け止めるなら、目的は八田堰かもしれないが、そこへの順路は特に決めずに歩いていたのかもしれない(「逍遥」とは気ままにあちらこちら歩いて回るということだ)。

では、以上の議論から雅澄らの登った可武夫究が鍼木の南方に位置する山あるいは丘陵だったと考えて、どこのことだったのだろうか。もちろん、雅澄らの登った頃(文政二年:1819年)から200年以上が経過しているため、宅地造成などで山そのものが消えている可能性だってあろう。なので、現在の地図を眺めているだけでは分からないこともある。わずかなヒントとして、付近の大字や小字に名前が残っていたり、あるいは企業や神社や住民の名前などに残っていることもある。実際、この「羽田紀行」の地名をプロットしていたときでも、「弘岡上村百笑(どめき)」という地名は、Google Maps で「百笑市場」という店舗名を見つけたからだ。しかしなんにせよ、「可武夫究」はウェブ・コンテンツの検索では何も手掛かりがなく、『高知県の地名』にも掲載されていないし、高知県内のかなり小さな山も紹介しているサイトにすら取り上げられていない。そして、雅澄らが歩いた一帯は現在で言えば高知市ということになるが、それまでの記録を参照するとなると、少なくとも旧朝倉村、旧春野町、そして旧八田村(ここは現在の「いの町」に属する)も含めた地域を調べる必要があるかもしれない。

さしあたって春野町については、高知市と春野町の合併前である1976年に発行された『春野町史』を、現在は高知市春野郷土資料館がオンラインで PDF ファイルにして公開してくれている。複合機でスキャンしたらしく版面に歪みがあるものの、われわれは OCR の補正を必要とする AI なんぞではないため(というか肉眼で見ている場合でも脳が補正しているのだが、OCR ソフトなんかよりも段違いに高性能である)、ありがたく簡単に読める。この『春野町史』では残念ながら可武夫究や紙帒嶽の情報はなかったが、一つずつ当たってみる他にない。

それから、この「可武夫究」という表記なのだが、地元の農民が名前の表記を雅澄らに伝えたかどうかは当時の識字率という点で疑わしい。それに、いかにも万葉風の当て字にも見える。「究」だけは万葉集に出てこないので、適当に字を当てたのかもしれない。しかし、僕が読んでいるのは漢文から読み下されて活字となった印刷物であるから、漢文の文字を読み下すときや、その原稿を印刷用の版下に写植やワープロなどで入力するときなどに過ちが生じる可能性はある。なので、この点についても原典を目にしないと何とも言えないし、たとえ原典にアプローチできたとしても僕が正しく判読できるとは限らない(楷書ならともかく、草書だと読めない可能性がある)。

[追記:2022-07-12] 「可武夫究(紙帒嶽)」という山が鍼木(現在の針木)までやってきた雅澄ら一行にとって、北側の山だったのか、それとも南側の山だったのかという点について考えを改めるべきかもしれない。更に幾つかの資料に当たってみると、お恥ずかしいことに江戸時代の土佐国について調べるなら常識の範疇に入るであろう、『土佐州郡志』と『南路志』に参考となる情報があった。土佐郡朝倉村について書かれた地形や田畑の名前を見てゆくと、両方の資料に「紙袋田」という地名が出てくる。なお、『土佐州郡志』には「鷹巣山」の西にあると書かれているけれど、この「鷹巣山」とか「鷹ノ巣山」という地名は、要するに鷹が巣を作っているような山という意味合いで他にも色々な場所に比定できるし、行政区分とは関係なく地元の人だけが勝手に呼んでいる名前だったりする可能性もある。そして、これだけではなく、『南路志』には池之内村に「紙袋田山」があると記されている。池之内村が現在の「高知県吾川郡いの町池ノ内」だとすると、これは鍼木地区の北側に当たる。すると雅澄らは、朝倉城跡を回って南東に鵜来巣城跡(鵜来巣山)を見ながら、今で言う針木北あたりの丘陵を西へ歩いていたことになると言ってもおかしくない。

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