Scribble at 2021-01-28 15:09:01 Last modified: unmodified

「生活保護は餓死しても受けたくない」。コロナ禍の貧困危機を昨春から取材してきて、最も衝撃を受けた言葉だ。命を守る「最後の安全網」であるはずの生活保護。どうしてこれほど忌避されるのか。

「餓死しても生活保護は嫌」コロナ禍で困窮、でも彼女は

幾つか事情があって、まず「自助」が難しくなって生活保護を申請すると、親族に「助けられないか」と行政から〈圧〉がかかるからだよ。いわゆる「共助」ってやつだな。多くの国では、そういうことを〈恥〉とか〈面子〉の問題と考える風習があるため、それを嫌う人とか、あるいは親族に迷惑をかけたくないと思う人は、生活保護の申請なんてしようとは思わない。

そして、それに輪をかけて、ここ東アジアの辺境地域では、『昭和枯れすゝき』のような歌で描かれる「力の限り 生きたから 未練などないわ」だの「世間の風の 冷たさに こみあげる涙 苦しみに耐える」だのといった負け惜しみとか逆ギレを、〈清貧〉などと称して、事情をわかろうともしない赤の他人が軽々しく美化する愚劣な伝統がある。はては、かけ蕎麦だの何のと作り話を流行させたり、貧しい暮らしの果てに身を滅ぼす悲惨な人々にも何がしかの〈美しく気高い意味〉があるだのと、文学者やクリエイターを名乗る人々が続々と滅びの美学を叫び続けてきた国でもある。品性下劣という他にない。

死は、誰が何を言おうと生命活動の停止であり、当人にとって意識的な経験の消滅だ。いちど起きたら絶対に取り返しがつかないことを、みんな知ってるからこそ、大半の凡人は宗教儀式や株式投資や合気道の修行や SM プレイ、それからワイン・テイストの分析哲学だのファッションの現象学だのと、ヒトの個体としての生命活動にとって本質的でもなんでもない気晴らしや暇潰しにすがる。

もちろん、机をドンドンと叩きながら、それこそ広告代理店的にキャッチーな「いのち」などという安っぽい観念を懐に抱えて何かを喚こうというわけではない。その手の〈観念的ヒステリー〉に説得力がないことは、気の毒だが多くの市民運動の悲惨な実態が歴史として証明している。それでも、こうして助けられるチャンスがありながらも亡くなっていく人々が増えないよう、梯子外しの成金リバタリアンどもの冷笑にも耐える水準の社会思想を考案し示す必要があろう。

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