Scribble at 2021-01-28 12:51:38 Last modified: unmodified

右とか左とか、保守とか革新とか、あるいはネトウヨとかネオリベとかリベラルとか、その手の安直で稚拙な対比だとか自意識が子供(と同じていどの知性)の遊びでしかないのは、何も難解な哲学とか思想の読書や勉強などしなくても分かる話である。にも関わらず、いい歳をして固執する人々がいるのは、そういうところにしかアイデンティティの拠り所がないという精神分析的な扱いをする方が適切であり、哲学とか思想の話として解釈したり説明しようとするのは、はっきり言って僕に言わせれば針小棒大もいいところだ。

A progression is as good as a tradition. よく、"a change is as good as a rest" という言い方をするのだが、そこからの類比として、或る何事かを進展させることは、或る何事かを維持することと同じくらい良いことだと言える。もちろん慎重に読んでもらいたいのだが、"any progression" とも "any tradition" とも言ってはいないし、"a progression" と "a tradition" とは、同じものを進展させるか保持するかという二律背反で扱っているのでもない(もちろん、そんなことは論理的に不可能である)。

そして、これは強調しておきたいことだが、人の生き方や人の社会で起きる物事の大半は、或るときには進展したり、そしてまた別の機会や条件では現状を維持するものである。常に変わらないとか、常に変わるなんてことが、逆に不見識や固執による馬鹿げた判断や行動であるのと同じく、何であろうと所与の条件において適切と考えられる理由に照らして変えたり維持するのでなければ、それを「理性的」とは呼べない。そして、この程度の理性的な態度は誰にとっても特段に難しいものではなく、自分が知りうる限りの条件において最善の選択をするというだけの方針を尊重し、堅持すればよいのである(もちろん、その方針もまた具体的な内容としては変わるかもしれないので、闇雲に堅持すればいいわけでもない)。

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