Scribble at 2025-07-04 14:37:36 Last modified: 2025-07-04 18:48:54
以前から、「数学の教科書や大学のテキストは非論理的で分かりにくい」という話をしていて、まずは組合せ論(場合の数と組み合わせ)を取り上げたのだが、他にも対数(指数は、対数に比べたら直感的に分かりやすい)だとか、あるいはベクトル空間で内積や外積のような概念も取り上げたいと思っている。
数学の教科書にも、確かに明快かつ論理的に筋道の通る書き方が試みられている本は多いし、僕は渕野さんが書かれた何冊かを、そういう「名著」に入れたいと思っている。それから、OpenID でおなじみの理事長である崎村氏が教えを受けたと言われている、一橋大の故松坂和夫氏の教科書も、数ある数学テキストの中でも特に導入部へ神経を払っている様子がうかがえる。ただし、妙な用語法もあって困惑させられることもある。
たとえば、『線型代数入門』(岩波書店、1980)の p.93 を読んでいるときに、ベクトルを縦に並べる表記を松坂氏は「行ベクトル表示」と呼び、そしてベクトルを横に並べる表記を「列ベクトル表示」という。もちろん、「行ベクトル表示」を「縦ベクトル」という意味で使うなら、これは明らかな誤用である。縦に並べるのは、どの数学者に聞いても、逆に「列ベクトル」と答えるに決まっているからだ。そして、この表示が要素ではなくベクトルを並べているものだということに着目すると、横に要素を並べる「行ベクトル」を縦に並べる表示だという意味に取れるので、そういう意味であれば縦に列ベクトルが(要素ではなく)並ぶ様子を「行ベクトルの列ベクトル状の表示」というわけである。だが、これはあまりにも分かりにくい。
そもそも、行列の縦と横を表す場合に、何に着目するかで「行」や「列」という表現の直感的な分かりやすさ(それは逆に言えば違和感)も変わる。まず、行とは横一列状になった形のことであると考えるなら、要素が水平に並んでいるベクトルを「行ベクトル」という名前を付けるのは自然なことだろう。でも、それらの要素は実際には各列の値が並んでいるのであるから、各列の値を行に並べてあるという意味では「列ベクトル」と名前を付けても不合理はないわけである。ベクトルがどういう形状をしているかに着目するか、あるいはベクトルの要素が何を表しているのかに着目するかによって、僕は「行ベクトル」とか「列ベクトル」という名前の直感的な分かりやすさや違和感は変わってしまうのではないかと思う。そして、それが分かっているからこそ、たぶん「行ベクトル」や「列ベクトル」という呼び方を採用せずに、「縦ベクトル」や「横ベクトル」という形状に着目していることが明白な呼び方を好む数学者もいるのだろうと思う。
そして、あまり好きな表現ではないにしても、「横」や「縦」という呼称にはもっと本質的な脈絡での利点もあると思う。それは、ベクトルなり要素を縦や横に並べて扱うことは、数学的な演算なり記号操作の便宜的な必要性によることであって、要するにただの決まり事としてそうすることが都合がいいだけであるという事実が明快に示されるからだ。実際、或るベクトルを列表示にしようと行表示にしようと、その数学的な本質が変わるわけではない。その量や数にとって、縦に表示するか横に表示するかは、どうでもよいことである。なので、「横」とか「縦」という作為的なニュアンスの言葉を使うことこそ、ベクトルの表記が数学的な本質と何の関係もない決め事にすぎないという事実をよく表していて、哲学的には妥当であるとすらいいうる。