Scribble at 2021-12-28 18:22:48 Last modified: 2021-12-28 18:39:07
無視しておいても社会科学的なスケールで言って無視できるか誤差の範囲でのインパクトしかない、無能の成果とか出鱈目な著作物とか思考や議論の習慣というものは、もう完全に無視して粛々と自分の仕事を続けることにしたらいいのではないかと思っている。それゆえ、僕はなめらかななんとかとか、立命館のお勉強君の本とか、エロおたくのデリダの郵便屋さんとかは哲学者として1行も読む必要がないと思っている。もちろん、いまをときめく元システム系の人々が書いた思想書っぽい紙屑を眺める必要も感じない(プロのエンジニアとしてすら、もともと何の評価もしてない連中だがね)。
結局、バカの書いたものも読むのが「知的誠実さ」であるという道義的な脅迫を自分たちで自分たちに課してしまっているわけだが、そんな必要なんてない。自分が何らかの著作や人物を切り捨てること自体が、一つのコミットメントなのであって、その末にどういう成果を上げるのかによって学者は勝負すればいいのだ。知的誠実さなどという世迷いごとに暇を潰してあれこれと〈ウィンドウ・ショッピング〉ばかりで成果を上げないプロパーは、結局のところ無能さを誠実さで弁解しているだけである。
哲学に限った話ではないが、リアリズムの問題として、業績というものは誠実な人間が出せるのではなく、有能な人間こそが出せるのだ。誠実でありさえすれば許されるなどとセンチメンタルな自意識で哲学をやっている人間が圧倒的に多いからこそ、結局は堅実な業績すら上げられないのである。哲学するしか他に選びようがないという切実さをもって取り組んでいるというよりも、プラトンやカントやウィトゲンシュタインが言ったことについて演習問題に唸らされるような状況に落ち込んでいる(まさに蠅取り壺に落ちた)のを楽しんでいるだけではないのか。僕が philosophy for everyone みたいな活動に根本的に不愉快で不純なものを感じるのは、これが理由だ。もちろん哲学が〈特権的〉であってはいけないし、東大に入る裕福な家庭のガキだけの概念的遊具であってもいけないとは思うが、学問あるいは分野ごとの〈分業〉というアイデアを単なるビジネス・ライクな脈絡だけでなく、学術研究にとって不可欠な発想として支持している立場から言って、仮に everyone に普及させることが目標であるなら、それは絶対に『哲学史』の教科書を教えるとか、だれそれのなんとか概念を理解させるといった、実は philosophizing にとって余計な夾雑物を教育の場に持ち込むことではないはずだ。