Scribble at 2024-07-31 20:04:43 Last modified: 2024-07-31 20:25:41
ただいま、古書店で手に入れた石田一良氏の『伊藤仁斎』(吉川弘文館、人物叢書 39、1973)を読み進めているところだ。ようやく、京都の誰それと親しいといった、具体的な影響関係や交友関係がまるで分からない、単なる namedropping な記述の羅列が終わって、伊藤仁斎その人の学問や思想を解説する箇所までたどり着いた。ずっとあの調子だと、読むに値しないなと思い始めていたところなので、安堵したところだ。ただ、『論語』にしても言えることだが、社会思想や道徳といったテーマにかかわる著作物だとか、そこに表されている思考や思想というものは、やはり客観的な事実に照らして導出されたり正当化されるものではないので、どうしても各人の生い立ちや来歴や経験から切り離して理解することができないし、恐らくはそうするべきでもないのだろう。
簡単に言えば、道徳や倫理というものは、眼の前にある石が石であるという事実だけでは何も語れない。その石を使って人を撃ち叩いたりしてはいけないのはどうしてなのかは、その事実だけから言えるものでもないし、その事実だけで是非を論じられるわけでもないのである。もちろん、これは哲学でも古来から "is-ought gap" などと言われてきた話題である。倫理学で「自然主義(的な誤謬)」と呼ばれている議論にも通じているわけで、道徳や倫理についてものを考える近代以降の学者で、この点について頓着も執着もせずに『論語』を論じたり講じるような無能は大学にいないだろう(もしいたら、翌日から俺が教授でもなんでも代わってやるから覚悟しろ)。
したがって、古典に記された文字の意味に関する訓詁学がどれほど言語学としての精度を引き上げていこうと、それだけでわれわれが『論語』に何を学ぶべきかが確定されたり決定されるわけではないし、古典の力とか影響力というものは、そういうところにはないのだろう。ただ、そうは言っても安易にポスト・モダンの口真似をして「誤読の思想」などと言ってのけるような物書き風情に、われわれは従ってはいけないと思う。そういう輩に限って、先に自分の言いたいことがあって、古典や偉人の名を騙ってものを書いているだけの売文屋だからである。正直なところ『論語』だろうと『純粋理性批判』だろうと、それを「90分で分かる」だの新書一冊で分かるだのと本気で思っているような著者であれば、それは単に勝手な思い込みや短絡でものを書くという無能の自己証明にすぎないのである。
しかしまた、だからといって古典の解釈や感想を支離滅裂で要領を得ない長大な文章として垂れ流すのも、愚鈍の証明にすぎない。我が国にも、学術研究者の誰も一人として読まないような大著を出版して得得としているイリイチやヘーゲルの研究者などがいるけれど、そういう紙くずに学術(これには精密かつ適切な分量の文章表現を究めるという意味も含まれているのだ)としての評価など誰も与えないという事実が、そうした著作物の無用さを実証しているとも言える。
ちなみに、僕は伊藤仁斎という人物について一定の敬意は抱いているけれど、彼の思想には全く賛同しない。制度や力なしに仁愛で成り立つ理想社会というものは、おそらく人が人であるかぎり実現しない。経済学にも「外部性」という概念があるように、人の心根だとか人間関係だけで客観的な物事を含めた社会や世界がどうにかなるという発想は、やはり人間あるいは知性を中心にしており、僕には人という生き物の傲慢にしか思えないわけである。僕は cognitive-closure 仮説の支持者であるし、可謬主義(有限主義)者でもあるから、そういう人の知性を過剰に信頼したり理想化するような議論には賛同しかねるわけである。もちろん、全く信用しないなどと言ってはいないが、人の性根をどうにかすることから出発するような倫理や社会思想は、やはり議論の限界に突き当たりやすく、それをなんとかするためだと称して、容易に神秘主義や精神論へ陥りやすいと思うし、それが歴史的な事実でもあろうと思う。道徳や倫理の議論が、たいていは未熟で馬鹿な者によってたやすく宗教に変質するのは、それが理由であろう。