Scribble at 2023-05-25 15:11:34 Last modified: 2023-05-25 16:35:08
ちょっと両極端な気がするんだよね、こういう対比って。確かに日本の歴史をさかのぼるっていうだけなら、日本人は武士の時代がやたらと好きだし(大河ドラマの大半は鎌倉時代から江戸時代を描いている)、明治から戦後までの第一次・第二次世界大戦という時期を描く小説やドラマや映画も大好きだ。それゆえ研究成果も出版物も多いため、更にそれらに触れる機会が多くなって興味を持つ人が増えるという循環が生まれる。よって、戦争に関わるマッチョな発想に感化されて、上記のように指摘される精神性とやらが現在でも昭和オヤジのパワハラやセクハラやストーカー行為に強い痕跡をとどめて、ガキにも影響があるということらしい。でも、それはそもそも日本の特定の時代にばかり興味をもつからいけないのであって、歴史に学ぶことは必要だ。寧ろ、その学び方や、学んだことをどう活用するかについて、適正な指導やアドバイスが不足していることに問題があろう。選択肢は多い方がいいし、どういう人がどういうことに関心をもつかは分からないし、分かると称して選択肢を狭めるべきではないからこそ、多くの海外の国で採用されているように、教師ですら扱いきれないほど大部の教科書を発行するのである。よって、同じ理屈で言えば、最近のことを重点的に教えた方がいいから教科書の近現代のページを増やすなんていう愚行も、大阪維新的な(ポピュリズムとリバタリアニズムの悪魔合体という)不見識だと言える。
どういう歴史に何を学んでどう活用するかについては、選択肢を狭めた上での「自由」を強制的に与えるリバタリアンのようなインチキ選択を押し付けるのではなく、可能な限りの選択肢を用意したうえで選び方をアドバイスしたり一緒に考える場を提供するのが、教育というものである。そのためには、「世界で一つだけの花」とばかりにガキへこびへつらう見せかけのサービス精神など教師に求めるのではなく、彼らが自信をもって指導したり一緒に悩んだり調べられるように擬制としての権威を与えるべく、最低でも学校教員には修士レベルの見識を求めることである。