2021年08月04日に初出の投稿

Last modified: 2021-08-04

ただいま、シャロン・ダロッツ・パークス『リーダーシップは教えられる』(中瀬英樹/訳、ランダムハウス講談社、2007)を読み終えようとしているところだ。正直言って、酷く失望している。このあと、パークスの議論を支えているハーヴァードのロナルド・ハイフェッツによる『最前線のリーダーシップ』も読む予定になっているのだが、いささか先が思いやられる気がしている。

リーダーシップが個人の資質や天性だけに依存するわけでないという主張は、言葉としては分かる。しかし、その理由付けはハーヴァードの授業風景を描写したり、講座を受けた人々の感想を並べたりするだけである。僕が見た限りでは、この手の「白熱授業」方式の演習では(教授自身も含めた)集団催眠に陥る危険性が高い。そして、たいていは後からインタビューに応じたり取材する対象はと言えば、成功した事例に限られていたりする。本書でも、最初の授業を聴いて履修しようとは思わなかった学生もいたであろうし、もちろんハイフェッツも想定しているわけだが、彼らも含めて途中でリタイアした学生などにも意見を聞かない限りは、しょせん生存バイアスで物事を判断しているだけでしかない。

また、リーダーシップについての論述が具体的であるように見えて、実は酷く掴みどころのないものになっている。結局は、ケネディ・スクールに入って履修しない限りは、次のように何を言っているのか意味不明な記述が多い。

「リーダーシップの芸術は、創造のプロセスのモデルを使うことで輝きを増す。」

ハイフェッツがプライベートでは才能あるソリストであることにも関連があるのだが、講座では学生に即興で歌わせたり、リーダーシップを説明するためにダンス・ホールだのジャズだのと音楽関連の比喩が多用される。それはそれで構わないが、他人へ説明するに当たって効果的かどうかは疑問がある。著者はハイフェッツ自身ではないのだから、彼と同じ説明の道具立てを使うだけでは、単なるエピゴーネンによる〈福音書〉でしかなくなる。もっとも、ハイフェッツはクリスチャンへ向けたセミナーや講演会にしばしば招聘されているらしいので、そのあたりは信奉者から何らかの宗教的な信心に近い意味合いでの支持を集めるという点で親和性があるのかもしれない。

だが、そういう「リーダーシップ」というのは、それこそ教えられるものなのだろうか? もしイエスというなら、ハイフェッツという人物は実質的に宗教であれ経営であれ〈カルト的な支持を集める人物の godfather〉ということになりはしないだろうか。

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