2022年08月05日に初出の投稿

Last modified: 2022-08-05

形式言語理論、プログラミング言語の理論、そしてコンパイルといった、システム開発や情報科学の基礎にあたる分野の教科書は、いまのところ洋書も邦書も含めて50冊くらいに目を通しているのだが、特にコンパイルやオートマトンといった話題について言えることがある。それは、非常に中途半端な記述の本が多いということだ。講義で時間がなくて中途半端なのか、それとも相手にしている学生の理解度を考慮して手加減しているのか、それとも出版社から紙面の都合で200頁足らずに必要な項目を詰め込めと言われたのか、いやもしかして当人がその程度の浅い理解でしか研究や教育に取り組んでいないからなのか、実情や事情や原因や理由や動機や趣旨は分からないし、学術研究については読み手であり消費者である僕らが、そういう人間関係や学問と関係のない事情など分かる必要もない。そんなことで教科書や学術書の評価に手心や斟酌を加えたところで、無能な人間に下駄を履かせて評価してしまい、更に馬鹿をたやすく大学に招き入れて学術や知識の下方圧力を強めて文化を零落させるだけであろう。学問においてこそ、有能であろうと無能であろうと等しく叩き潰すような負荷をかけるのが正しいスクリーニングというものである。

というわけで負荷をかけさせてもらうなら、やはりこれらの情報科学のテキストがアメリカの self-contained なテキストと比べて分量も圧倒的に薄いし、内容としても浅薄であるのは以下のように幾つかの理由があると思う。もちろん、これらの理由を解説して「情状酌量の余地がある」と言いたいわけではない。

まず第一に、200頁ていどのエロ同人誌みたいに薄い書籍のくせに〈閉鎖系〉で書かれているという点にあろう。ここで言う閉鎖系とは、解説した事項について発展的な論点や議論、それから更に進んで知ったり学ぶための参考図書や論文などが全く紹介されていないということだ。分量が少なくても閉鎖系を避けていれば、辛うじて情報源なり叩き台なり手始めに学ぶだけの価値はあろう。しかし、日本で出版されている教科書の多くは、そう作られていない。これは、もともとが著者の講義ノートを整理しただけといった、まったく読む側のことなど考えてもいない事情で作られた自費出版に近い体裁の教科書が多いからでもある。したがって講義で教員が内容を補うことが前提で書かれた学習指導要領みたいなものでしかなく、それを読んで理解できるようには書かれていない。例えば、その最も典型的な事例が小倉和久氏の『形式言語と有限オートマトン入門』(コロナ社, 1996)だろう。命題論理をわずか1ページで紹介しており、内容は基本的な用語や定理の名前だけが列挙されているという酷い代物で、アマゾンでは「わかりやすい」などと評価されているが、恐らくレビュアーはプロパーの教員(しかも弟子筋)か、あるいは何も理解していない極めつけの素人だろう。いわゆる、専門用語を知っただけで何かを勉強したつもりになって「はいちゅーりつ」とか「げーでるのふかんぜんせいていり」といった発声や文字の記入が学問だと錯覚している手合いだ。情報科学や論理学を学ぼうとする方々は、こういう馬鹿や無能の真似をしてはいけない。

そして二つ目の理由は、日本の教科書は数学的に厳密でもなければ、実は自分たちが独りよがりに思っているほど「わかりやすい」わけでもないからだ。そうなってしまうのは、出版社の編集者の多くが大学で教えるどころか塾の教員なり人にものを教えたり、あるいは自分でブログ記事を書くといった経験が殆どない、ものごとを伝える素人が携わっているという致命的な欠陥にある。もちろん海外の出版社も編集者の多くは大学教員なんかではないが、少なくとも大学院で(まさか学卒で学術書の編集なんてしないよね?)チューターの経験があったり、学位論文のディフェンスやら学生ジャーナルの編集委員やらをやっていたりする。また、そういう経験がないと自覚がある人々なら、当たり前だが教科書を編集するにあたっては必ず査読チームを作るものだ。博士課程の大学院生や部下の助手や飲み友達の同僚にだけ原稿を渡して読んでもらったていどで、新入生という初心者が読む教科書を書くなんて、世界中でも日本の学者だけだろう。恥を知るといい。

他の事情としては、海外のテキストのように学生が教科書を購入する補助を、日本の学生はふんだんに受けられないため、アメリカなら1冊の分量が多くなって3万円ていどの価格になっても売れるという事情があっても、日本にそういう事情がないという点もあろう。日本では、実際のところ大学生が申請する奨学金の大半は生活費(本人のどころか実家へ仕送りとして送っていたりする)になっており、教科書を購入するために使われたりしていない。よって、高い教科書はそれだけで疎まれるので、出版社としても3,000円(200頁ていど)を超える値付けの書籍を計画できない。もちろん、一部の大学出版局がやっているように営業利益を度外視してよければ、廣田襄氏の『現代化学史: 原子・分子の科学の発展』(京都大学学術出版会, 2013)みたいに750頁を超える大部の書籍を4,000円ていどで発行するという慈善事業のようなこともできるが、多くの理数系出版社はそれなりにリスキーなファイナンスを続ける零細企業であり、そんなことは不可能であろう。そして、そもそも最近の大学生の平均は、いくらコスト・パフォーマンスが良いと言われても4,000円という正味の金銭を捻出すること自体が難しいのである。

それから特に基礎的な数学の解説を読んでいると強く感じるのだが、各科目なり知識の依存関係を正確に理解せずに教科書の題目を並べたり、あるいは解説を展開している教科書が非常に多い。ブール代数、グラフ理論、オートマトン、命題論理学、回路理論、形式言語学、こういった科目の並び方が教科書ごとにバラバラだし、グラフ理論の中でオートマトンを説明したり、あるいは回路理論の中でオートマトンを説明したり、一冊だけで済む学生ならいいが、たいていの学生はわからないところがあると図書館で別の教科書を借りて読んだりするのに、これでは混乱するばかりだ。もちろん、特に数学において、このような依存関係の複雑さ(A が B に依存することもあれば、その逆もありうる)は驚くようなことではないのだが、それを知っているプロパーが知らない学生に何の説明もなく話を展開するのは、不親切という次元どころが教科書を書くものとしての不作為と言うべきであろう。よって、オートマトンの話がどこに入ろうと構わないのは分かるが、そうなっている見通しを説明する責任があると思う。そういう見通しのないままに議論を展開するからこそ、何を先に勉強しておけばいいのか学生は混乱するのだ。正直、コンパイラを開発したり、僕のように電通案件でシステム開発に従事するような仕事をするのに、チューリング・マシンを理解している必要などない。しかし、必要はなくても、理解していることが十分条件となって、何らかの成果に結びつく可能性はあると期待するからこそ、そもそも学生に教えたり、こうやって公に議論を述べたりするのだろう。そういう期待や可能性が何もなければ、博士課程の学生が知っていればいいような話を学部で教えるのは不見識というものである。

ともかく、情報科学や科学哲学・分析哲学のテキスト公刊という状況を眺めていると、これらに対して色々な事情はあれ、たとえば金子宏氏の『租税法』(弘文堂)とか、翻訳が多いものの経済学の教科書などは必要に応じて十分な分量で著作物にまとめられている。情報科学の著作を出している出版社ではファイナンスや人間関係など特殊な事情で大部の本が出版できないのかというと、そうでもないらしい。情報科学と密接なプログラミング実務や情報セキュリティ実務で続々と出版されている大部の通俗本やマニュアル本の類だってあり、どう考えても大学でテキストとして採用されるよりも企業のエンジニアとして購入すると見込まれる人々の方が少ないと予想できるマイナーなテーマですら、大部の本を出していたりする(Python のフレームワークとか、あまり採用実績がなさそうな NoSQL の DBMS とか)。分析哲学でも、かつてはホスパーズの入門書を分冊で出版していた時代もあったが、昨今は新書で出版されるのがやっとらしく、出たとしても「おフランスでは高校生が哲学をやっててどうのこうの」とか、下らない奴隷根性丸出しの本か、何の業績もない素人や、あるいは通俗本を書くのが専門の哲学プロパーどもにヤケクソのような入門書を書かせているばかりだ。

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