2022年08月05日に初出の投稿

Last modified: 2022-08-05

現実の話としてプロパーの多くも似たようなもんだろうと思うけど、いわゆる syntax, semantics, pragmatics という三つの種別に、それほど「哲学的な」重要性があるのかどうか疑わしいという印象はもってると思うんだよね。特に、これは抽象度が高い議論を好むという性癖のようなものの結果として、「語用論」などと呼ばれている分野をまじめに勉強した人なんて殆ど科学哲学のプロパー、いや分析哲学のプロパーにすらいない筈なんだよね。実際、言語学と何が違うのか。いや、言語学が無関係だとか「ていどの低い」研究だとまでは思っていなくても、そこに何か哲学として関心をもつべき何かがあると予感を持ってる人は殆どいないと思う。「プラグマティクスの哲学」なんてテーマをでっちあげて悩むふりをしてみせるくらいなら、国語辞典でも作ったほうが人の役に立つだろうというわけだ。僕は、金持ち喧嘩せずといった気楽な態度で昔から言われていることを無批判にスルーするような人々は、やはり性根として哲学者ではなく「大学のサラリーマン」だとしか思えないので、こういう話を堂々とする。

さて、この三題噺(あるいは "pseudo-triad" と言ってもいい)は、Charles W. Morris という人物が1938年に書いた『記号理論の基礎』(翻訳あり)で展開した議論がもとになっている。要するに100年も経っていないあいだに、多くの人々から当たり前の分類であるかのように見做され、実のところモリスの著作を読んだ人なんて分析哲学のプロパーでも10人に1人すらいないと思うが、既に不問とされている。しかしそれでも、語用論をまじめにやってる研究者なんて殆どいないわけで、語用論の成果だと言われることもあるジョン・ラングショウ・オースティンの著作も何度か改訳を重ねて出版されているが、彼の研究から出発していったい日本で何の業績が積みあがったのやら、われわれ科学哲学者には何もわからない(翻訳書が何冊も出たのは知ってるがね)。正直、分析哲学の素人臭い議論にも相通ずるところがあるのだが、それ英語とか日本語についての素人言語学じゃないのという印象しかないのだ。

しかしながら、このような学界と出版業界とでぬくぬくと親交を温めながら維持している下らない「伝統」など、哲学者であるわれわれアマチュアの人間にとっては知ったことではないし、われわれ〈哲学する〉者にとって真に重要なのは、そういう変なサルがごちゃごちゃと議論している分類の是非ではなく、宇宙や事物の真実であり根拠であろう。

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