Scribble at 2022-02-23 19:59:05 Last modified: unmodified

日本の、おそらく大半の人々は .ru という cTLD のウェブサイトへアクセスしたことなどないはずだ。今年に入ってから、このウクライナをめぐる国際情勢が物騒な雰囲気となっている昨今であっても、たとえば「ロシア側ではどのようなことを報道して主張しているのか」なんて好奇心がある人は少ないだろう。このように、ウェブのコンテンツというものは人々の生活スタイルとか偏見とか興味とか知識、あるいは職業でもいいし住んでいる地域でもいいが、色々な事情があって、全くアクセスされない一定の分量がある。僕がこういうことを指摘したからといって、それであなたが .ru ドメインのサイトへアクセスするようになるとは思えないし、そうしないからといって「それは偏ったものの見方であり、よくない事かもしれない」なんて本気で心配したり不安に感じたりしないだろう。

これは、もちろん学術研究者にも言える。日本で、分析哲学でも科学哲学でもいいが、そうした分野を専門にしているプロパーを引き合いに出そう。彼らの中で、ロシアの大学でクワインやデイヴィッドソンやセラーズの著書を使って教えている哲学科があるのかどううかすら、真面目に調べようとした人など殆どいまい。アジア圏ではカンファレンスが開催されていることがあるため、現地の研究者とのやりとりが起きるという都合から何らかのやりとりはあるだろう。でも、自分からわざわざ中国語やハングルを学んで香港やソウルへ足を運ぶ人はいない。そして、同じことは他の国にも言える。以前も書いた話だが、アメリカ人で京都学派なり西田幾多郎の研究をしているなんて、何か特別な(哲学的とはおよそ言えない)事情があって調べているのだろう。なぜなら、凡庸な人間はいくらでもやるので珍しいことではないけれど、研究が煮詰まったり既存の思想に飽き足らないくらいで、アジアとかアラビアとかの哲学を調べたら、新しくて違う〈何か〉があるなどと思い込むのは、たいてい錯覚だからだ。はっきり言えば、そういう〈新しくて違うこと〉で何かが解決できるとか納得できるなどというのは、哲学者として許し難い自己欺瞞の一つである。

かようにして、僕らが哲学として cognitive closure などと学説を打ち立てるまでもなく、もっと世俗的なところで人は自ら好んで frame of reference なり perspective なり、あるいは場合によって「下方圧力」と言うべきものを形成したり、自らに押し付けたり課してしまう。そして是非についても一概に論じられるわけでもなく、cognitive closure は良い悪いどころか事実だと思うが、多くの人々は哲学のプロパーであっても当然あるいは自然のこととして過ごしている。

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