Scribble at 2022-02-23 19:06:31 Last modified: 2022-02-24 13:58:32

21日の『ABEMA Prime』に出演した茂木氏は、改めてTOEICのリスニングとリーディングのサンプル問題に触れ「地獄のようにつまらない。くだらなすぎて、最低最悪。もう砂をかむようだ。マウンティングしているように聞こえるかもしれないが、はっきり言う。僕は『TED』のメインステージで最初の日本人の一人として喋ったし、ケンブリッジ大学にも2年留学した。その俺に言わせると“面白い英語”というものがあるし、ETSというアメリカのテスティングサービス会社が作った、日本人を永遠に“二流以下“の英語話者にとどめるための策謀だと思う」と切って捨てた。

「愛国者として、日本人の英語力をこのままにしておくことに耐えられない」茂木健一郎氏が“脱TOEIC”、“脱ペーパーテスト”を呼びかけ

英語の勉強についてページを公開している都合から、この手の話題に少しは興味があるのだけれど、上記のような議論を読むと、英語の習得とか勉強について大前提として言っておきたいことがある。それは、昔ながらの商売人とか運搬事業者とか移民とか越境者とか漂泊者が新しく行き来する国の言葉を覚える経緯などをモデルにして外国語を習得する理想的なプロセスであるかのようなことを言う議論には、何かセンチメンタルなものを感じてしまうということだ。また、幼児が言葉を習得するプロセスを自然だの理想だのと言いつつ、大人も同じプロセスを追うべきだなどと迷惑なことを言う人々も、はっきり言って外国語の習得とか教育について、口を挟まないでいただきたいという気がする。しかし、かといって昨今の English as the second language (ESL) というアプローチのもとで普及している教材とかセミナーとか TOEIC / TOEFL / IELTS のような試験が有効なのかどうかも、実はよく分からない。なので、いくら Abema が「テレビ朝日が制作するネトウヨ放送」という画期的なエンターテインメントだからといっても、わざわざ明け透けに「愛国者」とか「策謀」とか言わなくてもいいのにと思うが、いずれにしても茂木健一郎氏の言わんとする趣旨は分からなくもない。

実際、次のような反論があるようだが、僕にはくだらないとしか思えない。「TOEICも受け続けている英語講師のもりてつ氏(武田塾English取締役)は『そもそもTOEICは教養を問う試験ではなく、英語圏で生活ができるかどうかを測る試験だ。茂木さん、1回受けてみてはどうか。俺と一緒に受けてみないか』と反論している。」これの何がくだらないかというと、こういう英語で飯を食ってる連中には、そもそも TOEIC を擁護するインセンティブがあるので、茂木健一郎氏に反論する資格など最初からないのだ。「トイッカーとも呼ばれる、TOEICを本当に心から楽しんでいる人もいる」・・・バカか。そんなもの、どうでもいいよ。TOEIC なんて英語の能力試験というよりも一種のゲームであることは多くの教育者や体験者が指摘していることなのだから、そんなゲームを楽しみたい人間は勝手にやっていればいいのだ。入社や入学あるいは昇進の評価基準にするなど笑止もいいところだ。

そして、この手の話をする人間にいつも説得力がないと感じる決定的な理由は、「じゃあ、おまえら英語はいいとして、それでいったい何をしたの? 実績、学位、年収は? いまの会社での職位は?」と質問すれば終わってしまうからだ。つまり、英語教育にかかわる既存のサービスを擁護する連中の大半は、英語については人様に教えるていどには詳しくても、要するにそれだけのことでしかないという事実を超えるものを持っていないのである。しかし、英語を習得して僕らがやることは、アメリカで大学に入ったり、交渉したり、あるいは弁護士や医者になるということだ。正直、英語の勉強なんて最低限でしかなく、そこを何十年も改善できておらず、他の国に比べて英語を学ぶ人数も年数も引けをとらないのに英語が使えない人間を輩出し続けている既存の英語教育や英語関連のサービスは、簡単に言えば決定的に何かが足りないのだ。

もちろん、それが英語の教育や教材や教師だけに責任があるとは思っていない。なぜなら、他の国と比較して日本人の大半は英語を習得しないと職にありつけないとか、専門的な技能や知識が学べないとか、そういう脆弱性がない国に住んでいるので、そもそも英語を学ぶ必要なんてないからだ。これは、おそらく日本人と比べても英語が使えない人が圧倒的に多いであろう、モンゴルとか、ロシアとか、あるいは大多数のアフリカや中東の国々と事情は同じである。そうした国々は、逆に英語ができようとできまいと政情が不安定だったり貧しすぎて仕事じたいがなかったりするため、別の意味で英語を学ぶ必要性がない。韓国人や中国人や台湾人(中国の愛国者には気の毒だが、別の国だ)は、日本人に比べて英語を習得する人が多いと言われるが、それは別に彼らが〈英語習得遺伝子〉のようなものを持っていたり、外国語を習得しやすい生活習慣とか文法とか文化をもっているからではなく、やはり決定的なのは動機だと思う。なので、彼ら他の国の人々のようにギラギラとした欲望とかキラキラとした希望とか、そういう強い動機もなくて、たとえば洋画を字幕なしで観たいだの、「国際人」になりたいだの、MMORPG の国際サーバでアメリカ人と語りたいだの、そういう純朴で無害ではあるが、しょせんは恵まれた境遇の人間が思いつくていどの安っぽい動機で、英語の教科書を眺めたり、(放映中の朝ドラを批判したいわけではないが)英会話のラジオ番組を親子3代に渡って聞いていようと、そんなことではどうにもならないわけである。

そして、パックンが TOEIC にも一定の価値はあると反論した際にも、茂木氏は「そもそも日本企業がTOEICを使っているのは自分たちで英語力を判断できないからであって、そも日本人の英語力がなんでそのレベルにとどまっているのかを問題にしなければならない。それはやはり教育の中で英語劇やスピーチ、ライティングをしていないからだ」と述べていて、これについても僕は茂木氏の方に賛成したい。資格試験の勉強に一定の価値があるのは確かで、たとえば体系的な勉強をすることで我流の勉強による偏向を是正できるといった効用があるにはある。しかし、スコアだけで判断する企業の大半は、これは何度も言ってることだが、人事に人を評価する見識もなければ経験もなく、ましてや人事に関連する学位ももっていないのだら、簡単に言えば素人でも評価できるために TOEIC のスコアが役に立っているだけのことなのだ。そんな連中に評価されたところで、客観的には意味がない。大学生が幼稚園レベルの英語を使えるようになったと、英語もロクにできない大企業の人事部などに評価されて、それで彼らの英語が入社してから本当に役に立つのかという話である。そして、大学受験と同じく、多くの人々は評価される機会を終えたら勉強しなくなってしまう。明らかに〈文化的な下方圧力〉だ。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る


※ 以下の SNS 共有ボタンは JavaScript を使っておらず、ボタンを押すまでは SNS サイトと全く通信しません。

Twitter Facebook