Scribble at 2020-12-28 12:35:22 Last modified: 2020-12-29 17:19:11

先に来年の目標を一つだけ挙げたのだが、今年は幾つも目標を掲げていたわけではないため、それなりに満足のゆく程度で達成できたと思う。今年は、高校の数学を復習していた。1年から3年までの参考書を二種類だけ通読してノートを取り、おおよその概略を3年分は学び直してある。使ったのは、長岡亮介さんの「本質の研究」シリーズと、竹之内脩さんの「解法」シリーズだ。他にも赤チャートと「大学への数学」(ニューアプローチの方)と矢野健太郎さんの「解法のテクニック」シリーズを必要に応じて参照しながらノートを作っていた。特に、他の参考書では説明の展開が雑で飛躍が多く理解が難しいところは、意外にもコンパクトな赤チャートが参考になって良かった。

思うのだが、僕は数学の得意な人物ではないのだが、白チャートよりも赤チャートの方が理解しやすいので、あれは数学のできるできないではなく、図や言葉の直感的な理解に訴えることを好むか、それとも明解な基礎から論理的に組み立ててゆくのを好むかという違いのように思う。そして、得てして数学の教員が書く数学の参考書というものは、大学のテキストですら可能な限り明晰な基礎から出発して丁寧に説明を積み上げてゆく本は少ない。たいてい、「数学的なセンス」と称して雑な解釈やいい加減な理解を誤魔化す論理の飛躍とか前提の隠蔽がある。それゆえ、数学の本はたいていにおいて非論理的な〈文学作品〉と化してしまい(文学作品が非論理的だと言いたいわけでもないし、文学作品が〈悪いもの〉だと言いたいわけでもない)、耐えられないものとなる。これは、残念ながら海外の本でも似たようなものだ。僕は、恐らくプロパーほどではないにしても、「分析系」の哲学を修めたアマチュアとしては数多くの数理論理学や集合論やモデル理論などの本に目を通してきたと思っているのだが、そういう限られた経験から言っても、論理的に論理学を議論している本は一握りだと言ってよい。

そのような誤魔化しが生まれる理由は、たいていにおいて勉強不足と考慮の不足である。そこで議論されている論点を知らなければ、簡単に言えばプロパーであっても受験数学の知識以上のことは書けない。また、そこで何を理解しておかないと次のステップへ進めないのかを理解していなければ、受験数学として身につけた機械的な手続きをそのまま自分のテキストでも書いてしまうだけだ。つまるところ、ロクでもない数学のテキストを書いている人々というのは、自分が修めて研究に携わっている一部では高度な議論ができても、それ以外の論点や、そこまでに必要な知識を得た経緯については、何の反省も思慮もないのである。そういう意味で、大学の教員が書くテキストの多くは、予備校や塾の教師が書く教材プリントにも劣るような欠陥だらけなのだ。

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