Scribble at 2020-12-28 11:23:41 Last modified: unmodified

本日は図書館で借りている本の貸し出し延長という手続きを終えた。オンラインで簡単にできるのは、やはり現今の情報ネットワーク通信が普及してから初めて実感できることなので、改めて言うまでもないことかもしれないが、ありがたい。大学の学部生だった、つい30年前ですら望むべくもなかった生活手段の一つなのだから、ごくありふれた人の基準で言っても明らかに我々の生活は質と量のどちらにおいても「向上」したり「改善」していると言って良いだろう。もちろんインターネット通信やコンピュータは30年どころか半世紀以上もかかって、ようやくいまの性能を得ている。よって、見た目の生活の進展は技術の進展の遅行係数でしかなく、表面的な進展の速さを基礎になっている知識や技術の速さと混同し、あたかも数年後に「シンギュラリティ」がやってくるなどというデタラメに騙されてはいけない(そもそも、「ムーアの法則」そのものが、僕に言わせればコンピュータ・サイエンスの体裁を装ったプロパガンダにすぎない。あんなものは科学として議論できる仮説でもなければ、自然法則の反映だと想定できる事実でもなんでもないのだ)。

些事はともかくとして、図書館で延長の手続きをした本の一冊として、相変わらず小関さんの『鹿持雅澄研究』が含まれている。もう、この本を借り始めてから5年にはなるだろうか。所定の2週間という貸出期間の期限が近づくと、今回のように延長の手続きをして再び2週間の貸し出しとなる。延長の期限がくると、いつものように大阪市中央図書館へ連れと一緒に訪れて、一旦は返却の手続きをとるのだが、予約が入っていなければ再び貸し出し直せるため、その場で貸し出しの手続きをやりなおしてもらう。こんな風にして、5年くらいは借り続けているのだ。図書館を頻繁に利用するなら、こういう例は大して珍しくもないわけだが、昔なら本の裏表紙に貸し出しカードが付いていて履歴が分かったのだけれど、いまは原則として図書館の情報システムは貸し出しの履歴を残さない仕様なので、恐らく延滞といったペナルティにかかわる事実なら回数か時期くらいは記録してあると思うが(これは企業の CPO である僕の観点から言っても、プライバシーには該当しない)、この本をいつから何回だけ借り直しているかという記録は自分の「ほぼ日手帳」で調べるしかない。そういえば、昔の手帳をどこへ置いてあるのか。今日は朝から大掃除の準備として書籍を積み上げ直したし、午後は風呂に入ったりデータを Blu-Ray に焼いたりするので、ついでに過去の手帳も探して適当な場所へまとめておこう。

更に些事の話を展開してしまったが、もともと鹿持雅澄について調べ続けているという話をする筈だった。今年は、放置していると読む機会を失う恐れもあるから、そろそろ高知の市民図書館から『幡多日記』のコピーを送ってもらおうと思う。古書で手に入ればいいのだが、ああした有志による小規模な出版物は国立国会図書館にすら納められずに地元で頒布されるだけとなることも多いようなので、地元の図書館にあるなら、恐らくそこから複写を送ってもらうのが最も確実だと思う。もちろん、『スーパー源氏』(古書の検索サービス)やヤフオクでも定期的に探しているのだが、あれは殆ど出回らないと思う。あるいは、高知市内の古書店へ直に照会したり探してもらう方がいいかもしれない。

真面目に体系立てて鹿持雅澄の業績や思想を研究するなら、国文学なり日本思想史としての(恐らく初歩的な水準とは言え何らかの納得ゆく)成果を自分なりに求める以上は当たり前のことだが、『万葉集』に目を通して一定の水準で見識を積み上げておくことが望ましい。よって、「令和」の一件で再び売れたらしいが、『万葉集』にも目を通しておきたい。これは、たまたま別の理由で講談社文庫から出ていたのを一揃で買ってあるから、来年の目標の一つとしておこう。

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