Scribble at 2021-10-17 21:17:57 Last modified: 2021-10-18 10:42:40

蔵書の処分という話は書いているが、しかし買う本が続々と増えていては部屋の整理ができない。それに、もうそろそろ素養を高めるといった悠長な目的だけのための読書を必要とする年齢でもないし、寧ろこれまでに読んだり経験したことを思い返して咀嚼するなり反省することの方が大切ではないかと思える。

もちろん、常に何かを学び続けなくてはならぬことに変わりはないし、学びたいという欲求も減退などしていないものの、なんでもかんでもというわけにはいかない。それは年齢と関係なく、もともと人には興味や素養や経験という点で偏りがあるわけだし、それが各人の個性でもあろう。人として欠くべからざることに興味がないというのでは困るが、そういう不可欠な素養など、そう多くはないと思う。極端なことを言えば、黒人差別について何も関心がなくても、人類史に輝く数学の証明を打ち立てる人がいても許されるのかもしれない。また、これまで自治体や国政の投票を一度もしたことがない人であろうと、多くの人々に有益な商品を開発して提供する企業の経営者として、寄与するところが大きいと評価される人だっていよう。

しょせん、ノベール賞を授与されようと世界最大のオンライン・サービス企業を打ち立てようと、限られた寿命と能力しかもたない生物個体に、人として求められる範囲ですら万全や完全を求めても無駄というものだ。そういうことを根拠もなく求めるア・プリオリの「ストレッチング」(理想的な目標の設定)によって人の生き方なり成果を評価するという傲慢さは、結局のところ具体的な成果を上げたくないか上げられない夢想家や無能の弁明を用意する、無自覚だろうと巧妙だろうと凡人が共同体のスケールで共有して伝え続けてきた概念の仕掛けにすぎない。

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