Scribble at 2021-10-17 14:14:37 Last modified: unmodified

蔵書の整理を兼ねて、いつもより早いペースで本を読んでいる。ほぼ仕事のような調子で「処理」していると言ってもいい。これに加えて、読む必要がある本を精選し、自分自身の目標を果たすために読むべき本と、自分が好きで読みたい本だけを残して、ただの教養として読んでおいた方がいいんじゃないかという動機だけで所有している本は、新書や文庫であればなおさら、もう読まずに処分していこうと思う。そんなものまで読んでる時間は、50歳を越えて学術研究の成果を得ようと、それなりのスケールや水準での大志を抱いている人間には残されていない。

そう思えば、もう処分してもいいかという本は色々とある。たとえば仏教の本は実母が亡くなってから色々と集めて眺めていたのだが(もちろん、その多くは当家の宗旨・宗派に関わる)、結局は自己欺瞞に陥るか、せいぜい気晴らしにしかならないと分かった。そうであれば、気休めに何冊か持っていてもいいかもしれないが、それ以上は精緻な解釈とか理解の必要を感じなくなった。西洋哲学の歴史を理解するのに聖書を読んでおく必要は感じるけれど、もちろん〈哲学する〉ために聖書の知識が必要だなんてことはありえないのと同じである。

もし〈哲学する〉という認知的な活動なり営為が不可避的ないし本質的に聖書の理解なしには為し得ないというなら、〈哲学する〉とは要するに西洋人の猿真似でしかなかろう。ハイデガーやウィトゲンシュタインの、少し気取っただけの思想的コスプレにすぎまい。哲学が、たかがそんな文化的な芸能の一種でしかないなら、そんな暇潰しは PHILSCI.INFO で何度も言及している国内の通俗物書きどもに幾らでもくれてやる。勝手にそういう些事を繰り返して、東大教授にでもなればいいし、筑摩書房や岩波書店から棺桶に足を突っ込むくらいのタイミングで著作集でも出版してもらい、同じ程度に愚昧な思想オタクをエピゴーネンとして数多く輩出すればよいのだ。しょせん、その程度の情報や文化の伝達しかできない欠陥生物や欠陥民族に子孫を繁栄させる力などあるまい。

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