Scribble at 2021-08-23 09:56:59 Last modified: 2021-08-23 11:07:31

これは何度でも繰り返す必要があると思うので再び書いておくと、経営書というものは本質的に、つまり不可避的に後知恵でしか書けない結果論である。そもそも、新しい経営書を書こうとする動機じたいが後知恵なのだ。

たとえば、当時の経営書を読んで不満を感じて新しく本を書いた人物がドラッカーであった。そして、ドラッカーの経営書に不満を感じて『エクセレント・カンパニー』を書いたのがピータースであった。そして、ピータースの経営書で称賛された企業の多くが〈カス〉みたいな会社だったと分かって本を書いたのが『自滅する企業』(2008年)のシースだし、『自滅する企業』で称賛されたウェルチ(彼はドラッカーの信奉者だった)の(設備を残して人だけを殺す)「中性子爆弾」と呼ばれた権勢を疑問視して、それからも続々と新しい経営書が現れており(特にアジア系・アラブ系や女性の経営者による著作)、僕が見た限りでは一組の色々な方針をあれでもないこれでもないと言いつつ堂々巡りが始まっている。そして、「社会科学としての経営学は、そのようなものではない」という入山章栄氏らの著作がメタ・レベルで出てきているのが実情だ。しかし僕から見ると、社会科学としての経営学ですら原則としては後知恵を(数学として程度の低い)統計テクニックで脚色しているにすぎない。

しかし、これも繰り返しておくが、人のやることを理解したり批評するという行為は、社会科学や人文学のいかなる研究分野であろうと、そこに是非や価値判断が関わる限り、原則として後知恵になるのは避けられない。しかるに、そういう分野は本質的に結果論であるほかはないのだ。もちろん、そこで得た何らかの知見を整理した定式化から将来の予測を立てたり、あるいは為すべきことを提言することも学術の効用であり役割の一つではある。だが、それは全くの思弁や空想から導き出されるファンタジーであってはならぬ以上、そこには必ず根拠として過去の事実に学んだという証が求められ、それは取りも直さず結果論であるより他にないのだ。ゆえに、経営書が結果論で何が悪いのかというわけである。そこから先に何かを主張したり提案するかどうかは不可欠の内容ではない。現在に至るまでの歴史や過去の事実から学んだ内容が、簡単に言えば〈いま現在でも滅亡していない人類〉としての巨視的な観点での結果論である以上は、そこから後知恵を抜き取ることは不可能なのである。

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