2018年11月23日に初出の投稿

Last modified: 2018-11-23

philsci.info の Note で書いたように、僕は特定の分野で一定の条件を満たして他人から評価されたという意味で「有能」であることに何の疑問の余地もない。したがって、神戸大学の博士課程に進学したのは、色々な人間関係の事情もあるにはあるが、基本的にはそういう意味で「有能」だったからであり、何を謙遜する必要もない。そして、普通は「有能」という言葉はそうした限定的な意味で使うのが当たり前なのであって、自分が神であるかのように語っている者などいない。よって、こういう自負を目にして何か批判的なことを言いたくなる人物も、われわれと同じ分野では「有能ではない」のかもしれないが、別の分野ではわれわれよりも「有能」でありうる。そして、そういうことは色々な人に色々な分野で言えることなのであって、ノベール賞をもらっていようと小学生よりも下手な字を書く科学者など大勢いるし、高校すら出ていないドイツの大工よりもドイツ語を知らない哲学の大学教授などたくさんいるし、ウィキペディアからのコピペで書かれたと言われる自称「歴史書」一冊の発行部数が国内の歴史学者全員による著書の合計発行部数を越える可能性だってある(それだけ、たいがいの俗人は実は歴史になど興味がなく自意識にしか関心がない証拠だとも言いうる)。

ここでただちに指摘しておくと、或ることについて「有能ではない」と言っているからといって、ただちに「無能」だと言っているわけではないということだ。その人物が当該の分野で必要とされる或る条件をクリアしていないということにすぎないのであって、能力がゼロだと言いたいわけではないからだ。よって、或る人が大学院の哲学科に進学できなかったとしても、哲学の専門的な研究をする才能がゼロだというわけではない。どういう基準かはともかく、「80点」といった条件があって75点しか得ていないというだけのことなのであり、結果だけから彼が0点だとは言えない。ただし、或る条件を満たしていないことをもって、牽制あるいは擬制として「ゼロに等しい」と断定しなければ危険だと判断すれば、僕はこれまでも「無能」という表現を使ってきた。たとえば、システム開発や情報セキュリティのマネジメントについては、一定以下の能力しかない人間は一律に「無能」として扱い、マネジメントやコンサルティングとしては働けないように市場から排除しなければ、社会防衛の理屈から言って危険である(ちなみに僕が「社会防衛」という言葉を使うときには、「社会」なるものさえ安全ならいいという観念論を口にしているわけではない。そんなものだけが「国体」とか「革命的プロレタリアート」とか「セカイ」などのように独立して価値や資産を保有しているわけではないからだ。社会を守るとはルールや仕組みや構成員の権益を守るということに他ならない)。

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