Scribble at 2024-12-18 22:01:37 Last modified: 2024-12-19 14:00:28
「分析哲学」と呼ばれているものが何であるかは、実はプロパーでも曖昧な理解にとどまることが多い。というか、たいていのプロパーはこういうものに関心をもっていないし、ウィトゲンシュタインやクワインの著作を読んで論文を書いたり議論していながら、特に自分が「分析哲学」の研究者であるという自意識も持っていないだろう。僕は、それはひとまず健全なことだと思っているのだが、しかしそれは方法論のようなものが(少なくとも決まって)ないという事実も表しており、単に英語の洋書だけ読んでいれば成果を挙げられるかのような錯覚に陥っている無能も多いという現状からすれば、その健全さという評価には大きな但し書きを加えざるをえない。
ただし、既に四半世紀以上も前から「分析哲学の歴史」を議論する人々は出てきていて、それらの成果によると、分析哲学とは何の分析をする哲学なのかという問いには、ひとまず三つの答えがありうる。
第一に、これは分析哲学がとりわけ英米圏で普及し始めた頃から当時の研究者が自ら述べていたように、分析哲学とはすなわち「言語分析」というアプローチによる哲学を指している。現在では殆ど見かけなくなったが、1950年代頃には英語の文法などをめぐる議論が数多く出ていて、言語学への影響も及ぼしたし、逆に言語学からの影響も受けつつ色々な話題が展開された。有名なテーマとして、たとえば「カテゴリー・ミステイク」だとか「スピーチ・アクト」などがあったのは、殆ど哲学することと関わりのないガラクタのような通俗本を読んでいる諸兄でもご存知であろう。ただ、些末な文法の事項に拘泥するあまり、この意味での分析哲学に批判的な人々からは「現代のスコラ哲学」などと揶揄されたものである。そして、はっきり言えばこの手のアプローチによって哲学として達成された業績は殆どなかったと言える。しかるに、現在はこのアプローチを採用する研究者はほぼ皆無と言ってよい。
第二に、特定の言語についての議論がイギリスの Oxford で盛んに展開されていたのとは異なり、アメリカでは「論理分析」というアプローチを採用する研究者が多く出てきた。彼らの書く論文は、ローデリック・チザムやリチャード・ヘア(彼はイギリスの哲学者だが)らの著作が典型であるように、或るテーマや概念を定式化して、その論理的な構造を解き明かして、その前提であったり、そこから導かれる結論などを調べてゆくというものだ。これは現在でもたまに同じようなスタイルの論文を見かけるが、これもやはり廃れた手法であることに変わりはない。
そうして、ここ最近になって通俗的な本でも見かけるようになった第三のアプローチとして、「概念分析」というものがあり、その最新版のスローガンが「概念工学」と呼ばれている、なにやら IT 的なナウいフレーズだ。でも、上場企業の案件でサーバを構築してきた本物のエンジニアである僕から言えば、このような「なんちゃって工学」には殆ど学ぶべきものがない。いわば、現在までに展開され進展してきている形式的な言語学、あるいは数理論理学という、「言語分析」と「論理分析」とを適当に応用するだけの疑似科学ならぬ疑似工学みたいなものであって、これを通俗本で紹介したわれらが会長(僕が所属している学会の元会長なので)である戸田山和久氏には気の毒だが、このアプローチから得られる成果というものは、せいぜい認知言語学に置き換えたり還元できるようなことでしかなく、哲学としての成果をあげるのは無理だと思う。この概念工学については、PHILSCI.INFO でも既に最近の落書きで何度か取り上げている。
ちなみにだが、哲学では現象学という系統のアプローチでも、このところは圏論などを取り上げて、いかにも理数系コンプレックスがある自称文系の人々や、未熟な理解で修士を出たまま逆に人文系の華麗な議論にコンプレックスがある自称理系の人々に対する、まことに軽薄な議論を展開している人々がいるようだ。僕らのように電通と仕事をしてきた人間であるからこそ「悪い意味でのマーケティング」だとしか思えないような、中途半端に数学や IT 系の議論に関連させた、はっきり言って愚劣な本を続々と出している連中がいて、出版業界を巻き込んだスケベ根性には、やや強い違和感を覚えている。