Scribble at 2025-10-09 12:16:40 Last modified: 2025-10-10 19:31:19

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ちなみに、僕は辞書マニアでもなければ日本語について特別な素養や学識があるわけでもない凡庸な日本語話者であるから、自分の経験や好き嫌いでしか語れないのだが、子供の頃から辞書のカバーというのが大嫌いで、買うと即座に外して使っていた。もちろん、これをやると辞書は汚れやすくなるし、外したカバーを保管するような趣味はないので、古本屋へ売るときは査定が劇的に安くなってしまう。

ただ、僕はそれにもかかわらずブック・カバーの愛好者でもあり、阿倍野橋のキューズモールにある「ABC クラフト」で買い求めた端切れで連れ合いにブック・カバーを縫ってもらうこともある。いまでは書店でカバーを付けてもらう機会はなくなったのだが(PayPay でセルフ・レジを使っている)、使いもしないカバーを所蔵し続けている。それから、高校時代に続々と講談社ブルーバックスを買って読んでいたので、ベルマークのようにシールを何枚か集めてもらえる講談社の新書用ブック・カバーなども愛用していたし、もちろん無印良品で販売されているラベル素材のブック・カバーの愛用者でもある。

だが、辞書に使われるポリ製のカバーだけは許せない。設計思想の意図が分からないというのが一つの理由だ。もし店頭で大勢が手に取ると不衛生だというなら、全ての出版物にカバーを付けるべきであろう。どうして辞書にだけカバーを付けるのか。あるいは所有することになった当人ですら辞書の表紙を汚す恐れがあるというなら、それは大きなお世話というものだ。所持者が自分の所有物を長年に渡って使い込んで表紙が汚れようと、人によってそれは自意識プレイの成果として喜ばしいことかもしれない。もちろん僕は「使い込まれたアイテム」が汚れていることを誇るような自意識はないが、自分で使っていて汚れたり紙が変形してくるていどのことをカバーでどうにかしようという料簡が不愉快である。そして、何と言っても辞書のカバーは手触りが最悪だ。寧ろ、このカバーによって、書店で他人が触ったときに付着した微生物を改めてなすりつけてやろうと言わんばかりの感触があって、実は逆に不衛生に感じる。

しかし、考えてもみれば、そういう理由でカバーを外すことによって「本当に僕のものになる」という実感があるわけだし、これはわざとカバーを外す人の心理を見越して付けているのかもしれない。であれば、少なくとも出版社の意図を僕なりに善意で解釈する限り、カバーなんて買ってしまえばさっさと外してしまえばいいのだ。そして、カバーを外した本来の表紙の材質に感じる手触りの良し悪しこそ、その辞書を愛用するかどうかの、微妙だがしかし無視できない理由になったりするのである。なお、そういう点では、角川の必携国語辞典に使われているカバーは、手触りとしては平凡なものだが、このビニール臭がいかにも奇妙だ。よく、古書店業では仕入れた書籍をクリーニングしているというから、それによって着いた臭いなのかと思ったが、これだけ新刊書に近い状態だと、これは発行された当時からある臭いだろう。これだけは現時点での大きな減点材料だ。まぁ、子供向けの辞書とかには、こういうキツいビニール臭のカバーが意外に多くて、昔から困惑させられていたのだけどね(僕が子供の頃から「子供向けの」辞書を手にしなかった一つの理由だ)。

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