Scribble at 2023-02-05 10:10:04 Last modified: 2023-02-06 08:51:09

剃刀に関わる調べ物をしていると、どうも性分なのか関連する分野へと関心が広がってしまう。幸いなことに、「手に負えなくなる」なんてことにはならない程度の俯瞰した交通整理ができるのは、やはり哲学をやっている効用なのだろう。

ただし、何事につけても言えることだが、知識などというものは常に範囲としても未確定だし、知見の多くは正しいかどうか不明なものも多いし、そもそも既存の研究分野で採用されているアプローチが物事の理解や分析として(どういう基準によるかはともかく)適切な frame であるかどうかも保証が乏しい。それゆえ、僕らが従事しているような(科学)哲学という学問の価値が失われることはない。

もちろんだが、先の落書きで書いたように、われわれは人類の知恵や知識が未熟で不完全であるという事実に寄生している(一部の)社会科学者のようなゴロツキではない。原理的に言って、人類の知識は未熟で不完全である他にないのだが、哲学という学問はそれがどうしてなのかも問うからだ。全知全能の者がいても別に哲学者としてのわれわれには大したことでもないが(本当に。神がいても、哲学的には「それがなにか?」というくらいの話だ)、もっと重要なのはどうして「彼」が全知全能でありうるのかというテーマであろう。たとえば、「彼」が自己証明するにせよ、あるいは僕らが「彼」の全知全能を認めるにせよ、その基準は何だろうか。そして、どうして不完全で未熟なわれわれが「彼」の全知全能を(そして、その根拠になっている基準ですら)理解できようか。これは、本質的には意識とか知性の問題と同じである。

話がかなり逸れてしまったのだが、そういうわけで剃刀に始まって皮膚科学、生化学、それから鉄鋼業の歴史とか金属学とか関心が広がりつつある。それから、Rebecca M. Herzig の書いた Plucked: A History of Hair Removal (New York University Press, 2015) のような著作が関わる biopolitics も目配せしたい話題だ。なお、この本は『脱毛の歴史』(飯原裕美/訳、東京堂出版、2019)として翻訳されているが、大阪市の図書館には収められていない。買ってまで読むべきかどうかは(なにせ僕は社会科学者が何を言おうが髭剃りしたいわけだし)、かなり微妙な印象がある。その理由として、原書をざっと見た印象と同じくアマゾンのカスタマー・レビューでも指摘されているように、この本の内容はかなりアメリカ国内の事情に偏向していると思うからだ。髭剃りや脱毛なんて、それこそ世界中に習慣としても技術としても、それからイスラム圏では法律による規制すらある(タリバーンは理髪店に髭剃りを禁じている)。こうした色々な文化や地域や歴史といった脈絡をすっとばして、例によってアメリカの「女性」社会学者が大好きな国内のフェミニズムという、はっきり言って些末な脈絡を重視しすぎているように思う。なので、アメリカについて、あるいはアメリカのフェミニズムという脈絡での参考にはなるが、およそシェービングや脱毛や髭という話題については入門にも概論にもならない本だと思った。

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