Scribble at 2022-02-09 00:17:35 Last modified: 2022-02-09 09:18:04

この前から日本の数学プロパーや工学系の学者が書く(テキストではなく)通俗本の類にはろくなものがないと言っているが、それを是正するために必要なことは、僕らのようなデザイナーや雑誌編集者としてのセンスではなく、もっと単純なことだ。必要な分量を確保して、物事を丁寧に省略せずに説くということだけである。それにはアメリカの教科書や通俗本のような分量が必要だが、日本では何かと言えば紙面の都合がどうとか言いつつ、説明を省く責任が出版社の貧弱な予算であるかのような弁解ばかりがまかりとおってきた歴史がある。

もちろん、現実に学術出版社には潤沢な予算などない。財務的には出版の事業というものは書店とは違って、一冊ずつの出版物発行が「投資」に当たるため、常に予定している資金が用意できるとは限らないし、場合によっては全く学術的な理由でも出版業界の理由でも著者当人の理由でもなく、銀行など金融側の胸先三寸で出版の可否が決まってしまうことすらある。よって、書きたいだけ書けるものではない。しかし、必要なことであれば何冊分かの予算を合計して見積もりを立てるのも出版人の知恵であろうし、実際にやろうと思えばイリイチの祖述者とか頓狂な社会学の本を書く連中のように、学術コミュニティどころか読書人からも黙殺されているにもかかわらず、闇雲としか言いようがないほど大部の本を発行してもらえる人々だっているのだ。

通俗本に求められるのは、コスプレ・デーのキャバ嬢みたいな女子高生のイラストを表紙に描いてみせたり、安易なイラストやレベルの低い漫画や家族の手作りグラフを挿し絵に追加することでもないし、SF やアニメの登場人物や「ふつうの高校生」(実質的には、予備知識や教師役の言っていることを即座に理解できるあたり、開成高校のトップ成績の生徒だったりする)に複素解析を語らせることでもないし、哲学の論争を戦争や詰将棋に例えるようなサバイバル・ゲームやクリシン・ゲームとして凄惨もしくはおしゃれに演出することでもない。そういう完全な錯覚にもとづく見掛け倒しの本を何億冊と出版したところで、結局は催眠術に幻惑されてわかったような錯覚に陥る素人を増やすだけのことでしかない。自覚があるかどうかは知らないが、やっていることは三流の広告代理店と同じである。

そうではなく、説明を合理的に理解できる道筋として組み立てなおし、省略せずに丁寧に説明することだけが重要だ。そして、数学によくあるように、100ページ先で初めて定義するような用語を冒頭で自由に使うといった、非論理的で不愉快な説明の仕方を「数学的センス」だの「行間を読む訓練」だのと数十年にわたって誤魔化してきた歴史は粉砕しなくてはならない。数学の論文を書くならともかく、それ以外については殆ど社会的不適格者の集団において、一般向けにものを書く文章力を備えていたり、なおかつ文章を書く練習を積んできたような人間が多数を占めるとは到底思えない。はっきり言って、大学教員には教員免許の勉強すらしていない、勉強不足・経験不足の素人集団だという自覚がないのだ。

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