Scribble at 2025-08-15 18:23:24 Last modified: unmodified

よく、それぞれの国には事情があるという話があって、たとえば僕が日頃から拙劣だと批判している理数系の教科書にしても、「行間を読むことの意義」みたいなセンチメンタリズムを語る人たちが、必ずいるんだよね。でも、僕は敢えてそんなことには与しない。なぜなら、出版なり書籍の編集なり執筆というものが文化的な営為の一つであるなら、従来の習慣や価値観を正確に理解しながらも別の尺度や判断を試してみることも必要だからだ。それは、或る意味では文化的な営為を存続させるために必要ですらあると言える。色々な街の伝統料理などは、受け継がれてきた料理法や食材の選定や盛り付けなどを守るだけでなく、そこから逸脱したり、逆にもっと過去へ回帰したりしている。芸能だってそうだ。「古典落語」は古典として残り続けるが、しょせん初めて落語が演じられた当時はそれらが「新作落語」だったわけであり、現在の新作落語の中にも古典の名にふさわしい噺が残るであろう。

ということなので、僕はいつまでも紙幅の都合で云々などと言い訳をするばかりで、十分と思えるようなページ数の教科書を作ろうとしない日本の出版社には反吐が出る思いでいる。もちろんだが、出版という事業は1冊毎に多くの予算を先行投資するわけなので、辞書や百科事典や叢書で会社の財務が大きく傾いて倒産する可能性だってある。それは分かるが、では昨今の時流に応じて、どういう分野でもいいから学界という単位でプロジェクトを組んで、オンラインに膨大な分量の初等レベルの解説サイトを作ってもいいわけである。そんなことすら、どこの分野もやらないのだから、個人の研究者が膨大な分量のテキストを PDF で無料配布しているアメリカに勝てるわけがないのだ(まぁ、それらを勝手に中国語に翻訳してロシアの海賊サイトで共有してる中国にも、或る意味では勝てないだろう)。

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