Scribble at 2024-06-21 17:24:13 Last modified: 2024-06-22 07:15:40
当サイトでは何度も書いているように、僕が日本の社会学の本から学んだ唯一の成果として、差別とは「状況」のことであるという理解(昔の言い方なら「テーゼ」とか言ったかもしれないが)がある。つまり、誰でも誰かを差別しうるし、逆に誰でも差別の対象になりうる。これは、恐らく例外がない。どんな聖人君子であろうと、聖人君子であるがゆえに逆差別の対象となりえるし、何の落ち度もない凡人であろうと、その凡庸さこそが差別の対象になる(ちなみに、僕は凡人を差別しているわけではない。僕だって 100m を9秒台で走れないし、博士号ももってないし、資産を1兆円もってるわけでもない)。
したがって、或る観点で差別とされる事柄について理解したり表現したり対策しようとして、別の観点で差別とされるような態度を取ったり発言してしまうリスクというのは、誰にでもある。それゆえ、ものごとを日本の社会学者のように個別事例の刹那的で感傷的な文章として積み上げるだけでは、その場でいい人ぶった印象を与えて女子供から賞賛はされるかもしれないが(これも差別だよね)、学術的にはカスみたいなインパクトしかない。まさに、そんな文章にはゲーセンで100円使って楽しんだかどうかというくらいの価値しかないのだ。学術研究者であれば、やはりその職責としてルポ・ライターや文春の記者みたいなことをいつまでもやっていてはならず、どれほど馬鹿から忌み嫌われようと、高度で、形式的で、抽象的で、無味乾燥で、情け容赦のない、普遍的な価値や尺度や観点や理論を目ざすべきなのだ。
そういう観点をもつことによって、初めてカスハラ対策として高齢者ハラスメントを犯すという愚行を避けられるようになる。ただ、厚生労働省と言えば、労働者の権利がどうこうと言っていながら自分たちこそブラック組織の典型と言ってもいいような過酷さに見舞われていると言われるわけで、そういう中で国家官僚に期待される幅広い視点なり「複眼的思考」などと言われるものをもつとか醸成するなんてことは難しいのではないか。