Scribble at 2022-03-24 17:37:13 Last modified: 2022-03-25 07:51:30

ブログの RSS は、そろそろどうでもいいものは Feedly から登録を解除していくことにしている。もともと Feedly では無償のプランでも1,000個のフィードをサポートしていたのだが、いまではもっと少ない。僕らは Feedly の「アーリー・アダプタ」であったため、有利な条件で使えていたというわけである。でも現在は昔の無償ユーザは、現在の無償ユーザが登録できる上限を超えては RSS の登録数を増やしていけなくなっているため、いまの上限(つまり既に現在の無償ユーザの上限を超えている)を超えて新しくフィードを subscribe(「購」読という言葉は不適切なので使っていない)するには、代わりに登録済のフィードを減らさないといけないらしい。ということで、新しい、あるいは更に有益なブログやサイトのフィードを登録するため、取捨選択の必要がある。

最優先で解除したのは、「道徳的動物日記」(davitrice.hatenadiary.jp)とか「himaginaryの日記」(himaginary.hatenablog.com)とか「いつか電池がきれるまで」(fujipon.hatenablog.com)といった、他人の著作物をネタに使った読書感想文を垂れ流しているだけのブログだ。要するに金と暇さえあれば誰でも書ける文章だし、僕は既に自分で書いているのだから他人の(誰でも書けるレベルの)文章は不要である。つねづね編集工学おじさん(念のため書いておくが、松岡正剛氏のことである)についても書いてきたとおり、この手の乱読家が世界や宇宙を根底から下支えするような思想なり学説を高らかに公表したり(と言うのは大袈裟だが、少なくとも傾聴に値するまともなレベルの学術成果を出したり)、あるいは他人に発見された試しなど、人類の歴史において一度たりとも実例がないのだ。そもそも乱読なんてやりかたで人の心や考えを動かすような成果を出すことなど、文化人類学や認知科学や社会言語学としてコミュニケーションのモデルをどう想定しても無理なのである。そういう読書家の殴り書きなんて読むだけ無駄というものだ。実際に、記事を見ていれば分かると思うが、読解そのものも雑で、読んで紹介したいらしい引用箇所から殆ど思考を展開できておらず、つまるところ中学生の読書感想文と大差ない。

卑近な事例を言うようだが、僕が高校時代に眺めてきた上級生や同級生たち、つまり東大や京大にストレートで合格し、官僚や外交官や医者や学者となって華麗に実績を打ち建て積み上げてゆく人々というのは、その殆どが参考書一冊を読み続けたり、それどころか教科書だけを何十回も読み返すようなことをしていた同級生たちだった(もちろん予備校には行っていたが)。成果とは、読んだ本の種類とか数で決まるものではないという単純で力強い証拠と言えるだろう。そもそも、僕ら博士課程に進んだ人間よりも何倍もの本を読んでいる筈の、彼ら「著述家」だの「ブロガー」だの「読書家」だの「独立研究者」などと称している連中が、アマゾンで素人レビュアーたちから賞賛のコメントを集めたり、Twitter でこれまたクズみたいなプロパーの「ご恵投ツイート」を浴びる以外、いったい何の学術的成果を出して認められたというのか。それも世界規模で。そんなもの明治時代から数えても小学生ですら理解できるような数学の概念、つまり空集合じゃないか。

ついでに書いておくが、大学、大学院と籍を置いていて感じたことの一つは、読む論文や本の数で「勉強してる」とか「不勉強」などという単純な話をする奴に限って、哲学的には無能だと分かったことだ。つまり、ものを自分自身で丁寧かつ堅実かつ正確かつ執拗に考えていない人に限って、読書を思考の代用にしているわけである。僕がたまに人文・社会系のプロパー(日本人だけに限らず)について「情報処理してるだけ」と揶揄しているのは、そういう人たちのことだ。そんなことでは、卑俗な言い方だが「独創的」な議論などできるわけがないし、どう考えてみても過去に読んだ誰かの本をなぞっているだけではないかという不安に付きまとわれることもあろう(それを剽窃だろうとオウム返しだろうと無頓着に書き連ねる厚顔無恥でないなら、だが)。

もちろん、だからといってウィトゲンシュタイン・ワナビーどもが軽口で言うように、本を読む意味などないとか、古典など読まなくても哲学できるなどと豪語するのも、バカの自己紹介みたいなものだ。必要な読書はするべきだし、読書が不要などと言う人間は、そもそも学術研究が共時的・通時的な共同作業であるという〈事実〉を軽視しているのだから、学術の世界に足を踏み入れるべきではない。さっさと「孤高の天才」を気取って、よくオンラインで見かけるドクター崩れや素人の陰湿なキチガイ文章を書き殴っておればよい。ちなみに僕は哲学に関して自分が有能だとか天才だなんて思ってはいない。僕は寧ろ自分が〈日本で最低ラインの博士課程の学生〉だったと思っている。なので、僕よりも無能と判断した連中は、教授だろうと有名人だろうと容赦なく叩きのめしているわけだ。バカは学術研究コミュニティに必要ないからね。「不要の要」というフレーズは研究テーマについて言えることであって、学者は有能な人間だけでいい。

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