Scribble at 2020-11-11 19:38:16 Last modified: unmodified

このところ、中丸明氏の『海の世界史』(講談社現代新書、1999)を読みつつ関連のある事項を調べては、簡単に言うと「多いと少ない」について考えている。もう少し言うと、誰もが多勢の意見や判断が常に正しいとは限らないことを知っていながら、どうして多くの場面では多数決や過半数の選択を優遇したり、このほど実施されたアメリカ大統領選挙の選挙人制度みたいに "winner takes all"(ちなみに "winner" を「多勢」という意味の集合名詞として扱う場合は "winner take all" となるようだ)という極端な結果にすらなるのか。しばしば、世界史なり一国の歴史なりを述べたり論じるときに、得てしてそれは政治史となりやすいし、一部の権力者の物語が中心になりやすい。僕が高校生まで学んで研究職を志していた考古学でも、いわゆる歴史時代に入ると多くの議論が為政者の生活や文化の話になりがちで、酷い場合はその自覚を欠いたまま「日本の歴史」だの「日本の文化」だのを大上段に語るような人物が通俗的な出版を事とする会社に重宝されたりする。

もちろん、単なる判官びいきや天邪鬼では無意味である。そのような自意識だけに基づく疑問を抱いたり、自意識に基づくアプローチを採ったところで学術的にも思想としても真の進展はない。多勢には、なるほど多勢となるべき何らかの理由が(正当なものであろうと、あるいは単なる認知心理学的なバイアスによるのであろうと)あるのだ。しかし、とりわけ winner takes all のように多勢の意見が他を圧倒してしまうような状況は、大局的に言えば却って危険であるとも言いうる。なぜなら、実際に僕らは歴史の数々の事例を通して選択の余地がない状況でひとたび重大な過ちを犯すと取り返しがつかないことを知っているからだ。そのような理解なり認識が知恵というものであろうに、人はすぐに歴史を学ぶことを怠り、自分のいま現在の判断や知識を過信して、既に何百年から何千年も前に起きてしまったような過ちと殆ど同じことを繰り返す。

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