Scribble at 2022-01-26 13:58:02 Last modified: 2022-01-26 14:58:26

2019年に亡くなっていたのは知らなかったが、竹村健一という評論家がいた。亡くなるまでに300冊以上の著書を出して、彼が出演して時事解説するテレビ番組もあった。テレビで宣伝しているのを覚えているが、彼が監修したという「これだけ手帳」なるものも売っていたことがある(少し前なら野口悠紀雄氏の「『超』整理手帳」などと同じような情報整理の手法をうたった商品である)。

ウィキペディアによれば、なんでも「仕事ができない奴=資料を持ち過ぎの奴」というのが持論だったという。これは、或る意味では正しい。しばしば、積読の弁解があれこれと語られることはあるが、だいたいやね、積読してると称する学者や作家に有能な人間はいない。立花隆や猪瀬直樹といった人々のように、自宅に膨大な数の書籍や資料を抱えている人たちは、実際に(弟子や調査スタッフも含めて)目を通しているのであって、単に所持しているだけの本やコピーが積み上げられていても(積読の効用がいかほどかあるとしても)殆ど意味がないのは明白だ。正直、僕も自宅には数千冊の本を抱えているが、こんなものさっさと読んで参考になることを一つでも書きとめておけば、恐らく9割は売ってしまってもよいものだ。もちろん、学術研究にとって手帳一冊だけでいいとは思わないし、何冊あればいいとか、そんな要件をわざわざ設ける学術的な正当性などまるでない。フルブライト奨学金で留学した実績があろうと、しょせんはマクルーハンのメディア論を(しかも間違って理解したまま)〈密売〉して稼ぐしか能がなかった親米保守の凡庸なジャーナリストが、時事の話題を書き留めて適当に論評するていどの用途であれば、それくらいでもよかったのだろう。

それにしても300冊以上とは随分と書いたものだが、いまだに書店で販売されてる本など一冊もないだろう。僕が常々言っているように、それだけの駄本を合計で何万冊とばらまいていようと、社会科学的なスケールで言って人々に対する知的な影響力なんて、ゼロに等しいのだ。刹那的に読まれるしかない消費財としての本など、発売された当時は馬鹿が「知の巨人」だの「現代の古典」だの「新進気鋭の研究者」だのと騒いでも、結局はそんなものである。

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