2022年01月26日に初出の投稿

Last modified: 2022-01-26

大通りで威勢よくフェミニズムを叫ぶことが、胡散臭い、パブリシティや学界内でのプレゼンスとかが優先で、おまけに個々の女性の抱えている事情とは関係のないイデオロギーで凝り固まった、要するにマッチョのアクティヴィズムになってしまうのは、これまたどうにかならないものかと思う。僕は下らない「伝統」だの「慣習」だの「風土」だのという理由で、女性だとか若者だとか老人だとか障碍者だとか在日外国人だとか、あるいはブスだのチビだのカマ野郎だの貧乏人だのと、要するに特定の属性にある人々を別扱いなり特別扱いするような思考や決まり事や言動は、なんであれ〈差別的〉と言っていいと思う。これは慎重に表現しないと、そういう思考や決まり事や言動の当人あるいは当人の属性について表現してしまうと、それ自体がメタの差別になってしまう。それゆえ、最初に書いた懸念の対象も「叫ぶこと」なのであって、「叫ぶ女マッチョども」とは書いていないのである。なんにせよ、そういう差別こそ、僕が個人として自分にも起きうるリスクとして対峙しているものだ。

僕はしばしば日本の社会学者に多いと思える、些末な個別事例を「分厚く」記述するだけのルーチンワークを、傍観者というアカデミシャンとしての免罪符的な欺瞞だと侮蔑している。これは奇妙な自己撞着だと思われるかもしれないが、しかし僕がサポートしたいと思っているのは、哲学の勉強にしても、あるいはいろいろな差別とか貧困に襲われていることについても、そういう個々の当事者である。もしかすると「哲学」と呼ばれるアプローチによって何か発想が変わったり、あるいは錯覚だろうと考えなおしたり反省したり救われる気分になるかもしれないと期待しているのは、それを必要とするかもしれない具体的な個人である。しかし、それらに寄与すると自ら称している、ケアの哲学だの、philosophy for everyone だのアクティブ・ラーニングだの若者向けの哲学メディアだのというイベント屋どもの活動は何の評価もしないし、逆にそういう活動こそ、マスメディア的に雑なメッセージを発してしまう、啓蒙への反動的行為だと思っている。

そもそも、哲学とは全くヒトという生物の知的営為としてプライベートでありながら、その内実は個人どころかヒトという尺度を否定したり無視しても成立するような事柄を思考しなくてはならないという、根本的な矛盾を抱えたものである。その程度の理解なくして、他人に「哲学のわかりやすい教科書をどうぞ」などと平気で言える物書きに、どれほど些末な蘊蓄や学歴や教授職の地位があろうと、哲学を他人に語る以前に哲学を〈している〉と言いうる正当な根拠などないのだ。

仮に「啓蒙」の概念を僕自身の定義によるものとして使っていいなら、正確な定義は別の機会にするとして、少なくともそういう連中の実質的な自己宣伝や、自分たちが奉ずる手法やイデオロギーの宣伝とは完全に異なる。そういう連中は、「哲学」という大看板を掲げて何事かをやることによって、実際には自ら自身を使徒や牧師として宣伝してしまっているという自覚が欠落しているのだ(それは、物書きとしての名声という話とは違う脈絡である)。そういう知的に未熟な、または或る種の「政治」的な未熟さと言ってもいいが、そういう未熟な人々に、何十年と出版・報道や教育・学術の業界で飯を食っていようと、効果的な啓発活動なんて実はできないのである。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る


※ 以下の SNS 共有ボタンは JavaScript を使っておらず、ボタンを押すまでは SNS サイトと全く通信しません。

Twitter Facebook