Scribble at 2022-10-14 08:21:32 Last modified: 2022-10-14 10:56:26

平安時代後期の「歴史物語」と分類されている文学作品の一つに『大鏡』がある。かつて当サイトでも短く紹介したことがあった。僕が『大鏡』に関心をもつようになった経緯は、『やちまた』の著者である足立巻一氏が何かのエッセイで、『大鏡』を読んでいない国文学者はモグリだと言っていいような、古文のスタンダードな古典であると紹介していたことに発する。

基礎や初等的な事項の知識を正確に身に着けることが、どのような分野でも大切であろう。これは、小学校から大学院に至る殆ど全ての教育機関で教員が熱心に説く話であるし、端的に言って事実である。当たり前のことだが、英語の文章をぜんぜん読めない人が英米の哲学を翻訳書だけで「研究」することはできない。翻訳だけを読んであれこれと論じたり考えることはできるが、それは、訳本を読んで適当に自分なりの思弁を弄んでいるだけの素人論評でしかなく、僕らのようなアマチュアのレベルにも満たない、夏休みの自由研究みたいなものでしかないのである。こういうと、「学問は内容が本質であり重要なのだから、それを翻訳で読んでも構わない」と言う人がいるかもしれないが、それは翻訳が原著つまり論じている当人の議論や学説や思想を正確に表現していて、読む側もそれを日本語として正確に理解しているという思い込みがあるからだ。そういう思い込みを不問としているうちは、学術研究の名に値する成果は上げられない。しょせん、カントやウィトゲンシュタインの翻訳を読んでみて適当にあれこれと思いを巡らせてみましたというていどの、ゲームでよく言う「ぼくのかんがえたさいきょうのたたかいかた」みたいな思い込みと同じである。そんなことをいくらやってみたところで、日本の「論壇」とやらによくある雑で浅薄なポエムみたいな「思想書」を書き散らしては、サントリー学芸賞とかをもらうのが関の山というものだ。そんなものは、国際的なスケールの評価で言えば、インディアナ州の片田舎で町が主催する読書感想文コンクールで一等賞をもらうのと同レベルであろう。

このようなわけで、基礎的な事項の習得を軽んじてマスコミがばらまいている類の「超訳」だの1冊で分かるだのといった通俗書でママがくれる食べやすいお粥みたいな本ばかりを読んで情報処理したところで、せいぜい編集工学おじさんのような愚にもつかない蘊蓄垂れとして、都内の出版社に勤めるコンプレックスでギラギラした学卒編集者から「知の巨人」だの「若き俊英」だのと持て囃されるくらいしか効用はあるまい。もちろん、そんな連中がどれほどネットで名前を売って俗物編集者どもの目に留まろうと、禿のネトウヨ構成作家が書くような紙屑と同じで、5年もすれば BOOK OFF で投げ売りされるような「著書」を書けるていどのものでしかない。プロパーだろうとアマチュアだろうと、学術研究に携わろうと志す者の、およそ人としてのまともな生き方ではあるまい。そのていどの成果や「思想書」であれば、僕はあと10年もすれば Google や OpenAI の開発した AI エンジンが自動で出力すると思う。

ということで、表面的に文字列を弄ぶだけの俗物として学問に携わっているかのような自己欺瞞や錯覚に陥ったまま生きて死ぬことだけは勘弁願いたいと切望するなら、我々の先人たちが熱心かつ切実に取り組んできた基礎的な事項の習得をないがしろにしないという単純なことを心に留めておくことが重要だ。そして、そういう事項を学ぶために昔から有効だとされている教材として、国文学や日本語学では『大鏡』の読解が勧められているらしいと知って、実は足立氏がどのエッセイで書いていて、正確にはどう書いていたのかは思い出せないのだが、10年くらい前から『大鏡』を丁寧に読んで学んでみようと気になっていたわけである。

『大鏡』の原典は、もちろん現代まで伝えられてきた写本の類であり、いわゆる「三巻本」、「六巻本」、そして「八巻本」と呼ばれる分冊になった写本が知られている。いまのところ著者本人(著者が誰だったのかも諸説ある)が記した原本と呼ぶべき書は見つかっていないため、「原本に近い」とか「原本に忠実」などと言っても、比較対象が存在しないか未発見である以上、そうした論評はどのような表現あるいは内容を「原本」として想定するかという研究者や注釈者の見識による。そして、これらの写本を文字として正確に読み取ること自体が国文学の基礎的な素養の一つと言ってもいいわけだが、僕はそこまでやる関心も時間もないため、おおむね既刊の読解書を手元に何冊か置いているだけだ。

そういう読解書を手掛けた人物として、たとえば佐藤球(さとう・たまき、1865-1926)という人物が『大鏡詳解』という読解書を100年近くも前に出している。いまでもアマゾンや古書店の EC サイトでは1,000円ていどで販売されていて、これは内容が古くて価値が低いというよりも、出版年が古すぎて書籍としての状態が悪いという理由によるのだろう。古本と新刊書とで単純な比較はできないが、『大鏡詳解』と同じ出版社である明治書院が2008年に発行した河北騰氏の『大鏡全注釈』だと18,000円弱の価格がついている。ともあれ、過去にはこうした『大鏡』の研究者が何人もおられたわけであり、彼らの著書はこうして残っていて、佐藤氏の『大鏡詳解』は古本でなくとも既に国立国会図書館のデジタル・アーカイブで自由に閲覧できる。でも、これらを書いた当人については殆どオンラインに情報はない。かろうじて、古書店のサイトや図書館の書誌情報から国立情報学研究所の Webcat Plus で佐藤氏の著作リストが提供されているていどだ。

確かに誰が書いたかは問題ではないという意見があるし、実際に現在の国文学者で佐藤氏と面識のある人は殆どいないだろうし、今後は誰も面識などないまま佐藤氏の著作を(その価値があれば)紐解くのかもしれない。もしそこに何か学術研究の成果を継承したり学ぶにあたって本質な欠陥とか不足があるというなら、およそ古典の研究など誰もできまい。よって、著者個人について知っているかいないかは本質的ではないというのが大方の意見であろう。(いったい、プラトンやデカルトと面識のある人はどこにいるのだろう。例の口寄せと称して著作を乱造している新興宗教の教祖くらいだろうか。)とは言え、研究者個人についても、学術研究に志す人物として興味を覚えるのも事実である。そもそも、僕が玄奘三蔵や鹿持雅澄といった、おそらく思想としては相いれないものをもつと思える人々に関心があるのも、彼らの思想や意見にではなく、学術研究者としての生き方に敬意なり関心をもっているからなのである。そういう点で、人物についての資料が(もちろんプライバシーでもあるため、「あってしかるべき」だとか学者が自分自身について何か記録を残すべきだとは思わないが)乏しいのは仕方ないとしても、何か足りないものを感じる。特に、ウェブのコンテンツというのは歴史を軽視する人物がせっせと刹那的な文章を書いては「ページ・ビュー」だのと御託を抜かしている事例が非常に多いため、或る種の情報処理にとっては効率的で有益だが、学術研究などと大袈裟に言うまでもなく、一人の人物を知る手立てとしては、はっきり言って貧弱としかいいようがなく、信頼のできない媒体だと思う。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る


※ 以下の SNS 共有ボタンは JavaScript を使っておらず、ボタンを押すまでは SNS サイトと全く通信しません。

Twitter Facebook