Scribble at 2022-10-13 10:31:11 Last modified: 2022-10-14 10:58:28

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The world that Mario inhabited in his early years is different from ours in many ways, but foremost among them is that it is 2-dimensional. This means that Mario only sees in 1 dimension. When you, the player, see a goomba coming from a whole screen away, and can carefully track its movement, Mario sees only a brown line, terrifyingly wobbling towards him.

MAR1D

こういう下らないことにも何か効用とか「意味」があると気楽に言う人は多いのだけど、僕はそういう態度には敢えて反対したい。彼らは、こんなものを設計して実装する暇があったら別のことをやるべきだった。

バカバカしいと言っちゃあそうなんだけど、きっと何かの役に立つのかもしれないし、無意味なことにも無意味だという或る種の意味があるのだろう・・・なんていう、物分かりの良さそうな善人ぶった達観みたいなコメントを書く人はたくさんいるし、それこそ都内とかにはこの手の「やさしい」人々がごまんといるのかもしれないが、何でもかんでも多様性やダイバーシティというお題目だけで保護したり尊重すればいいというものでもないし、そんなことだけで知らないうちに世の中が良くなってるなんてことはない。公正に評価して優れた成果を称揚することも大切だが、それぞれの責任においてダメだと思ったものは切り捨てる覚悟とか見識というものを醸成しない限り、いつまで経っても全員で互いの足を引っ張りあって地獄へ向かって目隠ししながら万歳突撃するという陋習は消えない。

こういうことについて、ここ20年ほどのあいだに「多様性」とか「ダイバーシティ」というフレーズだけが、社会を改善するための魔法みたいに持て囃されてきているわけだが、そんな魔法は古今東西ありはしない。こういう魔術が持て囃されるのは、多様性さえあればどれか一つが成功しうるというロシアン・ルーレットみたいな成功パターンを妄想しているからであり、とどのつまりは昔ながらの天才や英雄待望論と同じなのだ。しかし、多様性を議論してきた本来の脈絡である生物学として正確に言えば、生物種というものはヒトも含めて長期的なスケールで言えば絶滅するのが自然であり、絶滅の主な原因である淘汰は生物種の異なる個体や異なる種どうしのあいだに、違い、つまりは多様性があるからこそ起きるプロセスだと言ってもいい。生物多様性とは、生物種において個体が淘汰されたり、あるいは種どうしのあいだで一つの種が淘汰されて絶滅へと至る、寧ろ原因や初期条件なのである。

よって、さまざまな形質なり特性なり生理能力をもつ多様な個体とか多様な生物種が等しく存続しているという状況は、それらすべてが淘汰や絶滅を逃れる自然環境が(どういうわけでか)成立しているということでもあるから、そんなものが不自然であることくらい分かるだろう。では、群集生態学者らは、どうして生物多様性が重要だとするのか。それは、所定の推移で進行しない不自然な淘汰が起きていて、それはヒトの環境破壊による人為的な原因によるところが多いからだ。生態学者であろうと、まさか淘汰に抗うのが正しいなどとは思っていない。寒冷地では生きられない細菌を寒冷地で保温ケースに入れたまま生存させることが生態学の使命であるなどとは考えもしないだろうし、それらの細菌を温暖な土地へ持ち運ぶことが正しいとも思っていまい。それと同じく、平面的な画面で設計されたゲームを1次元の画面に変換したらどうなるかなんて、数学的には100年以上も前に理論が出来上がってしまっている話でしかないし、コンピューティングや実装の問題としても50年前の UNIX エンジニアにやらせてもできたような話でしかない。それをいまどきやってるバカバカしさに、面白いという意味での値打ちはあるのかもしれないが、それはせいぜい TikTok で犬が後ろ足で立ち上がる動画を眺めるていどの価値しかないのだ。

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