Scribble at 2022-05-06 18:12:28 Last modified: 2022-05-06 18:17:03

僕は、アメリカの社会科学者とか IT 系の物書きやアクティビストたちが言うような「シェア」とか「オープン」というコンセプトを野放図に社会システムへ適応し、それらのコンセプトを実現するように仕向けるというのは、当人たちが都合良く思っているほどの結果には至らないと思うんだよね。彼らの多くはテクノロジーの表面的・経済的な「成功」によって、敢えて言えばクルクルパーになってると思う。膨大なデータや、世界中でローンチされる新しいサービスやソフトウェア、それらを伝えたり議論するメディアとか CGM コンテンツの急激な成長や拡大で、自称専門家として語っている当人たちが踊らされているのだ。特に、社会科学の基礎的な素養が乏しいシステム開発者や IT ベンチャーの経営者が語る「経済」とか「社会」なんてものは、その9割以上がロクでもない偽の自由主義であり、隠れ専制主義だ。僕が10年以上も前から OpenID の ID プロバイダによる「フェデレーション」という発想は単なる寡占状態であり、今でいう GAFA の支配を ID や認証基盤という点で固定してしまうと非難していたのも、同じような理解にもとづいている。

何事かを「シェア」するというのは、それこそ開発のヒントや仕事の経験談から NHK の番組や SNS で主婦が子供に作っている弁当(なぜ夫の作る弁当が絶対に登場しないのかという話はともかくとして)を紹介するような事例にまで普及しているアイデアだが、これは違う脈絡で理解すれば、アイデアや知識や情報、あるいは知的財産になるかもしれない事までもが無料で普及していく広告であり、そのコストを視聴者や消費者自身が払うという夢のような広告システムに他ならない。そして、それらの大半は何事かをやるにあたって基礎的な訓練とか素養を身に着けることなく、目の前の課題をクリアするために必要な、ゲームの攻略本の何ページに書いてあるヒントみたいなものを、世界中から寄せ集めることに等しい。よって、こういうものに囲まれて暮らす人々は、常に刹那的な要求に対して刹那的な「解」とやらを求めて暮らしていく。そのために必要なのがウェブでありスマートフォンであり「シェア」であるというわけだ。これは、後進国の若者や先進国の金持ちの小僧とか芸能人をアルコール中毒や麻薬中毒にするための手練手管とほとんど同じである。視野狭窄の状態で身動きできないようにして(theme-setting の詭弁)、唯一の解決策であるかのような、それでいてイージーな選択肢を提示することで(麻薬も、最初のうちは破格の値段で与えるという)、そういう思考や生活スタイルに慣れてしまう。何か困ったことがあれば、知恵袋だ、StackOverflow だ、Qiita だとアクセスすれば簡単に何でも解決できる。

あるいは「オープン」というアイデアも、ソフトウェアのライセンスという話に始まって、いまや学術論文を無料で読むことが「権利」であるとまで言われるようになっている(或る意味ではそうだ。研究者の身分として大学が助成金を受けていたり、あるいは個々の研究資金として税金の補助を受けているなら、納税者が成果の一部を享受できて当たり前である)。果ては、大学の授業も MOOC のような無償で閲覧できる動画として公開されているし、テキストやシラバスも無償で公開される事例が続々と増えている。しかし、実際のところオープンになっていくのは僕ら一般人の成果だけであり、大企業や政府の知財や公文書は簡単にオープンとなったりはしない。そして、そのタイム・ラグや、非公開の情報を持つか持たないかという非対称性によって、いまだに大企業は中小企業よりも圧倒的に有利だし、政府は国民よりも有利なのである。

話を労働者の身分として考えてみても、僕らが仕事のヒントやアイデアをブログ記事などで書いて無償で公開していても(それこそ「オープン」に「シェア」しても)、企業は何のコストも払っていない。それでいて、労働者という名の生体部品は勝手に洗練されたり向上してゆく。英語で書いていれば、その影響は多くの国にも広がり、要するにグローバリゼーションによって世界中の「道具」が企業の人事部が何もしなくても高水準のブルーカラーやホワイトカラーに育っていってくれるのだ。

もちろん、ここから直ちに「我々は騙されている!」などといきり立つ必要はない。なぜなら、そうしている人々の一部は、確かにそうすることで「料理研究家」とやらになったり、秀和システムからクズみたいな本を出版して、凡人として何らかのリターンを得るからだ。或る意味では、そうしていることで些末なノウハウを貯め込んだ末に派遣社員やフリーランサーやクラウド・ワーカーとして生活を営む人々もいよう。そして、その競争に打ち勝つかどうかについて企業は責任がない。それこそ、アメリカの IT 関係者が熱烈に信奉するアイン・ランド氏や、国内では池田信夫氏らが掲げる自己責任の世界だからである。

しかし、困ったことに多くの人々は「シェア」とか「オープン」というアイデアを別の脈絡では「情報のアナーキズム」とか、「テクノ共産主義」といったスローガンを支える概念だと言い立てることがある。したがって、一方では単独の企業が支配している情報通信サービスの専制状態から自由になるために、自分たちの経験や知見をシェアしたりオープンにするのだというわけなのだ。しかし、それをやることで同時に自分たちを〈オンラインでしかものごとを解決できない人たち〉にしてしまっているという自覚がない限り、そういうスローガンは確実に負ける。なぜなら、情報通信サービスを Google や Apple に支配されて政治的なスローガンの幾つかが台無しになろうと、そんなことは食えなくなるよりはマシだからである。

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