Scribble at 2021-08-22 01:32:27 Last modified: 2021-08-22 09:21:20

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『ドラッカー名著集1 経営者の条件』

昨日は、以前も会社のマネージャ研修で読んだことがある『経営者の条件』を再読した。まず、この本はドラッカーの意見を述べた著作であり、学術研究書ではない。よって、書かれている主張や提言には殆ど実証的な根拠が与えられていない。せいぜい、そうでないとこういう不都合や不合理に至るであろうという論証があるくらいで、大半は〈ベキ論〉のオンパレードだ。ああしろこうしろと言ってもらって、それを元にあれこれと考えて試してみる高校野球のマネージャにとっては指南書として良いかもしれないが、まともなレベルの企業のマネージャにとっては、殆どナポレオン・ヒルとか、地下鉄のドアにプレスリー・マニアみたいなオヤジの写真を使って広告が貼ってある金運上昇の秘訣を書いた本と同じである。片言隻句だけを取り出したら〈いい感じ〉(語尾上げ)のフレーズが幾つも見つかるが、しょせん根拠はない。

たとえば、「小学一年の算数の教科書は、『溝を掘るのに二人で二日かかりました。四人だったら幾日かかりますか』と聞いている。一年生にとっての正解は一日である。現実の世界ではおそらく正解は四日である」という喩え話が出てくる。主旨としては、人数が増えると管理コストやコミュニケーションをとるための無駄な時間や手間がかかってしまい、却って個々人の生産性が落ちると言いたいのであろう。しかし、そこまで生産性が落ちると言いうる根拠はない筈である。もちろん、そうなる可能性があるという点には同意するが、常にそうなるわけでもない。有能な管理者がいたら1日どころか4時間で終わるかもしれないだろう。要するに、こういう〈得てしてそういうものだ〉という皮肉を喩え話で書いてみても、論理的な矛盾でもなければ幾らでも反論の余地が生じる。

それから翻訳について、とりわけタイトルに「経営者」という言葉が使われていることについて述べておきたい。著者であるドラッカー本人が、本文で何度も、"executive" は経営者だけを意味しているわけではないと明言しているにも関わらず、このように恐らくはマーケティング的な事情とやらで矮小化した言葉を使ってしまっているのは、はっきり言って文化的な犯罪だと言いうる。著者がわざわざ "executive" は経営者だけを意味するのではなく、職位に関係なく自ら成果を指向しつつ意思決定した仕事に取り組む知識労働者のことだと書いているのであるから、それをきちんと脈絡を外さずに日本語として翻訳できないのであれば、「イグゼキュティヴ」と表す他にあるまい。(あるいは、「誰もが経営者になったつもりで取り組んでもらいたい」といった安っぽい訓示でも使われる言葉の彩として、寧ろ「経営者」という言葉の方を拡大解釈して使っていたとしても、本文にはそれを示唆する文章はない。書名だけそんなことをしても無意味である。)

さて、実はこの後に『コトラー 新・マーケティング原論』を手にしたのだが、これは酷い内容だった。いかに2001年の出版とは言え、流行の営業手法や広告手法をなぞって並べただけの「カス」としか言いようがない代物である。著者らが提案する「ホーリスティック・マーケティング」なるものも、結局はマーケティングという概念の最も広い意味である、市場調査からロジスティックスや商品開発や広告や人員管理など、いわゆるプロダクト・マネジメントや事業本部規模の管理手法をオンライン・サービスを使って〈ナウい〉仕組みに書き換えただけの話でしかない。20年後の現在から見た後知恵であるという点を差し引いたとしても、まともなレベルの本とは思わないね。彼の分厚くて高額のテキストは、マーケティングの原理原則を丁寧に扱っているので、いまでも読んでみたいと思うが、これは駄目だ。第一章に目を通すだけで、完全に読む気も必要も失ってしまった。

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