Scribble at 2021-08-21 11:23:31 Last modified: 2021-08-22 10:32:44

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そろそろ、すぐにでも処分できる本は無くなってきたのだが、昨日は「もったない本舗」へダンボール箱1個ぶんの本を送り出した。先月から読んできたビジネス書で不要と判断したものや、上記のとおり高校数学の参考書、あるいは PHP のフレームワークを解説したシリーズ(どの本も半分くらいを使って、実は PHP という言語や LAMP の設定を解説していたりする)などだ。なお、意外に思うかもしれないが、処分する本には『ブルーオーシャン戦略』も入っている。既に重要と判断した箇所はメモに残してあるし、恐らくは読み返すたびに何か気がついたり参考になるところは見つかるかもしれないが、当サイトの「他ならぬ凡人である僕の読書方針について」という論説でも説明しているように、そういう偏執的な心配をして本を抱え込んだままでは増えるばかりだし、それを言い出すと(通俗本はともかく)殆どの学術書は何度でも読めるのだから、いくら時間があっても足りないだろう。そういう、何度か読める価値のある本だということは分かっている。そのうえで、取捨選択しなくてはいけない。或る一定の時間が与えられたという想定で、『ブルーオーシャン戦略』を再び通読するか、それとも『ことばと対象』を再び通読するかという判断を迫られたら、企業人である前に哲学を志す者にとって答えは自明だというわけである。

数学の参考書は勉強し直すために何冊か(と言うには多いかもしれないが)手に入れているのだが、もちろん丁寧に通読してノートを作ってしまった以上は手元に置いておく必要はない。こういうものは実際に何かの計算をしたり、更に進んだ科目の理解に役立てるための素養を身につけるための本であって、何度も演習を読み返したり練習問題を解き直して「頭の体操」のために所蔵するようなものではない。それなりに素養が身についたら、さっさと売っぱらって、新しく他の人の役に立ててもらうのが健全だ。もちろん、僕は大学の数学科へ進むような能力は最初からないので、こういう勉強には限度がある。これから予備校の講師になるわけでもなし、問題を解けなかろうと間違おうと、数学書が何を言っているのかを理解できるようになれば十分である。つまり、数学の理屈を理解できるかどうかは、東大の入試問題が解けるかどうかとは別の話なのだ。「理系」と称する人々の大多数は、おそらく進学校の高校入試の問題すら殆ど解けないであろう。(実際、東大や医大へストレートで入った同級生も含めて、うちの高校の期末試験は平均点が常に30点くらいだったし、全国模試で順位が二桁台の連中ですら誰も解けなかった問題が幾つもあった。)

上記の参考書は、どちらも或る時期の一部の受験生にとってはよく使われていたものだ。参考書はどうしても流行り廃りがあるし、特にどこかの予備校に通う生徒は他の予備校のテキストを全く知らないということがありうるので、同じ時期の生徒どうしでも「定番」だと考えるテキストに偏りがある。よって、誰もが使ったことのある参考書というものはないだろう。恐らくチャート式ですら帰国子女やインターナショナル・スクールの生徒なら使ったことがないかもしれないし、もちろん参考書という教科書以外の本を買うこと自体が難しい経済状況の家庭に育った人なら、全く分からない話でもありうる(もちろん、それが一概に気の毒だとかいけないと言っているわけではない)。そういうわけで、これらを有名な参考書としてご紹介したいわけではないし、そんなことをする必要も感じないのだが、どちらもそれなりに有用だったという感想は申し添えておきたい。

長岡氏の参考書は教科書の副読本という位置づけとは別の方針で書かれており、もちろん当時の指導要領を大きく逸脱するわけではないが、考え方や問題の解き方の基礎にある着想という段階にまで落として議論している点が特徴だろう。したがって、あまり適切な言い方だとは思わないが「理論派」の参考書として知られている。ただ、1年から3年までを半年くらいかけてノートを作りながら通読してみた限りでは、評判ほどの緻密さや厳密さはない。やはり高校生や浪人生のレベルで判断している「緻密な議論」とか「厳密な説明」というわけなので、token は同じでもぜんぜん基準にしているところが違うため、相対的には僕の基準で言うと、せいぜい青チャートを噛み砕いて書き直したくらいのレベルだろうと思う。実際、この本だけで正確な理解ができたわけではなく、赤チャートを読んで初めてクリアになったところが幾つかあった。もちろん、通読して得るものは非常に多く、高校数学の復習として手始めに白チャートなんかではなく、これを使って良かったと思う。

次に竹之内氏の参考書は、これはいわば〈指名買い〉であった。もともと僕が高校時代に使っていた竹之内氏の『理系のための基礎解析』(培風館)が良かったという記憶があるので(だから、いまでも所持している)、試しに高校数学の全課程を扱った著作を読んでみようと思ったわけである。しかし、簡単に言えばこれは期待外れだった。もちろん、これも3ヶ月ほどかけて(僕なりに)丁寧に通読してはみたが、どうも最初に目を通した長岡氏の参考書と比べて議論に緻密さが欠けている。よって、最初に長岡氏の参考書で作ったノートを補強するような内容が見つかったら、それをノートへ書き足していくという使い方をして終わった。これはこれで有益ではあったが、はっきり言えば3ヶ月も費やすほどのことではないと思う。

これは特に現役の高校生への参考になる筈だが、僕が在籍していた高校を始めとして進学校の〈できる〉生徒というのは、僕が見ていたり話を聞いていた限りでは(僕は〈できる〉方にはいなかったので)、学年度の初めにもらった教科書は、少なくとも大学受験で選択する予定の自然系と社会系の科目については4月中に全て通読してしまい、授業はどちらかと言えば「おさらい」として聞く人が多いようである。予備校の講義も学校の授業も自分のペースでは進められないが、教科書や参考書や問題集を使った自宅での勉強なら、幾らでも自分のペース(実は、それが授業などと比べて速いか遅いかは問題ではない)で進められるため、進学校の生徒であれば、教科書は読み物としてざっと目を通し、後は参考書を精読したり問題集を丁寧に解いていくという手順を反復することが重要である。参考書の精読なら、よくできる同級生だと最低でも1年のうちに5回くらいは読み返していたようだし、問題集は一度でも使えば解くヒントを覚えてしまいやすいため、せいぜい知恵の輪の解き方を忘れるくらいの期間を空けて2回くらい使っていたのが限度だと思う。

自然系と社会系の科目の教科書をざっと通読しておくと書いたが、これはもちろん国語や英語の教科書はあらかじめ通読しておいても意味がないからである。小説の一部を引用して誰かの心情がどうのこうのと能書きを並べたり、Mike と Ken がどうしたとか、そんなことを先に通読して頭に入れておくことには何の意味もない。国語や英語は単語の徹底的な暗記と、教科書に書かれた内容では貧弱すぎる文法の理解が先であり、教科書をどれほど読んでも即座に知識の上限に達してしまう(教科書に出てくる単語を全て記憶しても早稲田や慶応にすら入れないのが現実だ)。

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