Scribble at 2024-06-07 14:28:56 Last modified: 2024-06-07 14:40:29

僕は、分析哲学は知らんけど、少なくとも科学哲学の議論をフォローするために、大学の初年度で教わるレベルの数理論理学の知識すら「必須」だと思ったことは一度もないね。なので、さきほど酒井さんだったか、哲学書を読むために論理学が必要だといった、いまどきよくわからない自意識としか思えないセミナーの告知だかなんだかを眺めていたのだけれど、そんなことないと思う。哲学書を読むために「論理的」である必要はともかく、論議学を学んでいる必要はないと思う。修士課程の学生だった当時の僕から論理「学」の知識を差し引いても、僕は全く何のハンディキャップもなしに昔と同じく神戸大の博士課程に進んでたと思うね。これはなにも別に天才だからじゃない。そもそも大学院の博士課程に進むだけ有能だったというだけのことで、その中に論理学の知識は必須じゃなかったというだけのことだ。

もちろん、僕は Hodges だとか Chang & Keisler の model theory だの、あるいは竹尾先生から修士課程の入学時にいただいたレモンの『論理学』を始めとして、やれ Enderton だ Boolos だと、それなりの数の論理学や集合論やモデル理論や圏論の本を眺めているけれど、これらの知識があって切実に役立ったと言えるのは、せいぜいプトナムの論文を読むときくらいだった。というか、彼の場合はモデル理論や公理的集合論そのものを題材にして議論しているのだから、必要なのは当たり前だ。もちろん議論にロジックの概念が登場する著作は多い。たとえばファン・フラッセンの『科学的世界像』にも簡単なモデル理論の話は出てくるけれど、別に予備知識がなくとも分かるように書いてある。

正直なところ、「~のための」などと大見得を切って学ぶほどテクニカルな知識や演算が求められるわけではないんだよね。たとえば、分析哲学者がしばしば何かの定式化に数学的構造を持ち出すことはあるけれど、そんなことをするから「検算」する人が出てきて、その定式化だとこういう妙なことが含意されてしまうよ・・・という、例の theory of explanation のような延々と続く自己増殖的な議論になってしまう。日本で発売されてる科学哲学の入門書は、たいてい「説明理論」を解説しようとするわけだけど、僕は、あれは科学哲学のトピックだとは思ってないんだよな。あれは分析哲学の議論だと思う。ポパー風に言えば、「世界III」の内部で自足するような、いわばただの論理的な話というのは、おおよそ分析哲学の議論であって、科学哲学とは違う。もちろん、だからいけないと言いたいわけではないけれど、そのスコラ的な悪い面が出ると、記号を示して鬼面人を驚かすような議論をする連中が出てくる。東大暗記小僧とかの「おりこうさん分析哲学」の類で、だいたい「分析系」などと現象学の人々から陰口を叩かれる元凶は、こういう浅薄なことをする人がいるからだ。

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