Scribble at 2020-09-08 11:20:04 Last modified: 2020-09-08 13:15:53
「左翼」と「右翼」、あるいは「リベラル」と「保守反動」のようなレッテルなりラベルが無効であると言われ始めてからでも、恐らく半世紀近くが経つのではあるまいか。それでもいまだに「プサヨ」だの「ネトウヨ」だのと、そうした古臭い対比を踏襲するような表現が使われ続けている。
もちろん、凡人の知性で簡単に運用できる概念は限られているため、彼らの《セカイ》で意味を為すように回収可能な語彙というものの範囲では、それらを超える概念を提案してみたところで、勉強する気のないやつに『大学への数学』を与えるようなものでしかない。しょせん凡庸であることに微睡む気楽さから抜け出ようとしない人間には、そういう志に見合う道具しか使えないわけで、しかも日本では世俗的な愚かさを過小評価したり、人生の機微とばかりに演歌的に免罪する風潮があるため、そのような凡人どうしでの同調圧力なり下方圧力を超え出る気概とか能力がない限り、自力で凡人の足の引っ張り合いから逃げることは困難であろう。なんとなれば、博士号を取得したりノベール賞を受けても、人はどのみち死んで無に帰するのだから同じことだというわけである。
そして、このようなロクでもない人生観を支える一つのまやかしが、「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」という有名な一節を曲解した、凡庸さの正当化であろう。大衆は正義であるなどと1980年代に博報堂と一緒になって叫んでいた、都内だけで有名な思想家やコピーライターといったクズみたいな物書きどもを始めとして、ささやかな生活だの何のと凡庸な生活や思想を過大評価しては、向上心を無軌道な野望と同一視して見せたり、キャリアウーマンやパワーエリートの悲哀を描くようなドラマを数限りなく制作して放映してみたりと、凡庸さを徹底的に正当化して見せる。そうして、凡人なら誰でもできそうな(と思い込んでいただけだが)恋愛を生活の基軸なり人生の評価軸として据えるような価値観を多くの人々に小説やテレビドラマや演劇やコマーシャルでねじ込みながら、逆に自分たちはそうしていないがゆえに、ロクでもないレベルの業績しかなくても「知識人」や「文化人」の座に居座って岩波書店から本を出せるというマッチポンプを続けてきたのが、日本の言論人である。こうした連中は、われわれ哲学者に言わせれば出版ゴロでしかなく、クズどもだ。
既にこのようなクズどもの本を熱心に意味もなく(それこそ1980年代は青学や慶応の学生が意味もなく彼らの本を手に持っていた)読む若者は減っているが、しかし代わりに自分たちの幼い知性を補完してくれる反動漫画家とかネトウヨ構成作家の手軽な本は売れ続けている。誰でもたいていは知性も教養もないので、日本人とやらに生まれたという些末な事実しか拠り所がないため、それを汚されることは耐え難いのだろう。それゆえ、我が国は美しいとか、我が国の人々は多くの偉業を達成したとか、あるいは我が国は戦争時も良いことをしたと、まるで北朝鮮さながらのストーリーを(幼い知性のぼくちゃんたちに)描いて見せてくれる人々が珍重されるというわけだ。これは、仕組みとしては吉本隆明氏のようにアノマリーと言うべき思想家が都内の《しゃれおつ》思想が大好きな凡人や出版人どもから名声を博していたのと同じ構図である。バカは、右だろうと左だろうと哲学的にはバカなのである。よって、そもそも哲学者から見て右も左も最初から関係ないのだ。
ゆえに、当サイトではネトウヨとか、品性下劣な左翼とか、正義バカとか、あるいはホリエモン的な梯子外しのリバタリアンなどを個別に取り上げているわけだが、もともと個別に取り上げたり分類する必要などない。有能な人間や天才は創発的な業績ゆえに多様性をもつが(それゆえ理解するのが難しい)、バカは古今東西の区別なくみんなバカなのである。その点では、確かに「平等」だな。