Scribble at 2022-05-19 13:05:55 Last modified: 2022-05-21 12:58:38

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File:Portrait of Giovanni Verga.jpg

19世紀の後半に作品を書いて発表したイタリアの作家、劇作家、そして写真家でもあった、ジョヴァンニ・ヴェルガ(Giovanni Verga, 1840年9月2日~1922年1月27日)の「ネッダ」や「赤毛のマルペーロ」という短編は、彼が傾倒したとされる「真実主義(verismo)」あるいは「イタリア自然主義」とも言われるスタンスを反映した著作として知られている(「ネッダ」はイタリア自然主義への移行期に書かれたものとも評価されている)。

試しに Google で検索するとわかるはずだが、ヴェルガについて日本語で書かれた論説としては、『イタリア学会誌』に掲載された数本の論文と、小田原琳氏(東京外国語大学)や倉重克明氏(埼玉大学)らの学位論文くらいしか、まともなリソースはない。訳本の商品情報はどれも金太郎飴の味すらしないコピペだし、それ以外はすべてガラクタと断定してよい。簡単に言えば、イタリア語でも読めない限り、あなたがヴェルガについて知るためのリソースはウェブに殆どないのである。実際、イタリア語のウェブ・ページですら、期待するほど多くはない。さらには、ウェブ以外の媒体を調べても、リソースが膨大に蓄積されていると期待できる根拠はない。これは、さすがに興味深い作品とそれらを書いた作家が知られないままというのでは勿体ない。

ジョヴァンニ・ヴェルガ(正式な戸籍名は Giovanni Carmelo Verga di Fontanabianca、“di Fontanabianca” は先祖がイタリア北部の Fontanabianca を領地とした貴族だったため)はイタリアの南端(そして地中海のほぼ中央部)にあるシチリア島の東海岸にあるカターニア(Catania)という街で1840年9月2日に生まれたとされている(*)。彼の生家は裕福な大土地所有者であり、父親のジョヴァンニ・バティスタ・ヴェルガ・カタラーノ(Giovanni Battista Verga Catalano)は、スペインからやってきて後にシチリア島の南部にあるヴィッツィーニ(Vizzini)に勢力を誇った元貴族の家系にあり(イタリア王国が成立したときに貴族として復権はできなかったようだが)、母親のドナ・カテリーナ・ディ・マウロー(Donna Caterina di Mauro)はカターニアの裕福な家庭の出身だった。そうしてジョヴァンニ・ヴェルガは、両者のあいだに五人兄弟の長男として生まれたのである。当時のシチリア島は両シチリア王国の一部であった。

学校を卒業してから都会に出て流行作家となった半生はともかく、上記で述べたようにヴェルガは出生地のシチリアで生きる市井の人々を描こうと考えを変えたか展開させて、地元に戻って作家の活動を続けたようだ。そして、彼の信奉するところとなったのが、"verismo" と呼ばれている思想である。19世紀の次第に工業化・資本制社会が普及しつつあった状況で、イタリアにも「南北問題」があった。北部の都市に比べてシチリアなど南部の地方は、いまだに悲惨な経済状況にあったという。そして、小田原琳「自由主義期イタリア知識人における倫理的実践 : 『社会問題』論の展開を通して」, 甲第70号, 東京外国語大学, 2006-04-26, info:doi/10.15026/35627)を参考にすると、ヴェルガがシチリアに戻って執筆活動を続けた「ヴェリスモ期」と呼ばれる時期に書いた作品には、筆者の形跡を限りなく消す「非人称性」という形式が採用され、いわゆる作品構成とかプロットのような概念を感じさせないような特徴があるという。実際、登場人物に地元の方言で語らせたりという手法を使って〈そこで起きたことをそのまま描写している〉かのように思わせて、したがって当時の南部イタリアとりわけシチリアでの生活の厳しさについても、〈文学作品〉なんてものを手にするような人々が想像もしなかった過酷さを印象付ける。そうやって、創作物ではあっても〈現実・真実〉を読者に突きつけることが彼の狙いだったという。

実際、何週間か前に読了した『カヴァレリーア・ルスティカーナ 他十一篇』( 河島英昭/訳, 岩波書店(岩波文庫, 赤707-1, 1981)という短編集に収められた「赤毛のマルベーロ」は、貧しい家に生まれて家族からも虐げられつつ炭鉱で働く少年の話だが、最初から最後まで何の救いもないエピソードや描写が続く。そして、ちょうどこの頃に「児童」、「児童労働」、そしてそれらが貧困などとともに「社会問題」として立ち現われ、明確に社会科学なり政治のテーマとなってゆく。実際、小田原氏の学位論文によると、ヴェルガは「赤毛のマルベーロ」を書く際にシチリアの経済や文化を調査したレポートを参考にしていたのではないかという考察を紹介している。そして、それらの実態つまり「真実」と考えられた記録などを知っているなら、「ネッダ」のような作品では見られたご都合主義的な援助者などいないという事実が作家の前に並べられていることは想像できるし、そこから書けるものは「赤毛のマルベーロ」のような殆ど救いのない描写の連続でしかない(結局、そういう描写を「ストーリー」として終わらせる唯一の方法は、主人公がいなくなるか死ぬしかない)。

昨今でも、「活き活きとした」描写だの、「リアリティ」だのという安っぽい言葉で文学作品を批評する手合いは後を絶たない。そして、そういう過酷な境遇に近い人でもなければ、全く対極の富裕層や貴族でもない人々が、PayPal やらクラウド・ファンディングやらというイージーな手法で「社会貢献」を済ませてしまえる〈小銭の福祉〉や〈ソーシャルな福祉〉が成立しつつある(或る意味では行政への諦めでもあろうし、逆に行政にとっては批判を交わす格好の道具でもあろう)。しかし、こういうステージに上ってくる「問題」とか「事実」の大半は募金用に加工され脚色された〈データ〉であり〈プレゼン〉であるし、それについて100円や1,000円を寄付するボタンをスマートフォンの画面でタップする行為の結果も金融〈データ〉の通信であり〈パフォーマンス〉であろう。そしてさらに困るのは、この手の状況を「ヴァーチャル」などと言って簡単に否定する幼稚な「社会学」の批評が全く通用しなくなっていることだ。実際、既に僕らの社会には、それこそヴァーチャルな環境で成立している仕事をして生活を送る、現代の「マルベーロ」と呼べる境遇で働く人々が増えているし、グローバル経済においては、これを「リアル」な一国の行政の規制でどうにかできる段階は既に終わっている。

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*「されている」と書いたのは、1840年9月2日に彼の出生を記録したカターニア登録局の出生証明書はあるが、実際に生まれたところは別であった可能性があるからだ。それは、父方の実家があった、カターニアの南西に広がる丘陵地帯の中にある街、ヴィッツィーニ(あるいはその近くにある田園地区のティエピディ)で生まれたのではないかと推測されている。当時のシチリア島では、彼の作品でも描かれているようにコレラが蔓延していた。とりわけ、彼が生まれた1840年には春頃から大流行が始まって、暑さで感染者も死亡者も増えていたため、一家がヴィッツィーニへ逃れていたとも考えられる。また、後にヴェルガは友人に捧げた文の中で “Giovanni Verga da Vizzini”(ヴィッツィーニのジョヴァンニ・ヴェルガ)と書いているため、もし彼がカターニアで生まれ育っていたらこうは書かなかっただろうとも言われる。しかしながら、コレラのパンデミック(第2回目とされる世界規模のパンデミック。このとき哲学者のヘーゲルもコレラで亡くなった)は1837年に終息していたし、「ヴィッツイーニのジョヴァンニ・ヴェルガ」と書いたからといって、そこで生まれたという意味にはならない。こういうわけで、最も適切なのは、少なくともカターニアで出生証明書が発行されたという事実だけを述べることだろう。

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