Scribble at 2023-01-28 09:59:37 Last modified: 2023-01-29 11:39:34

世の中には、雑誌の記事だろうと新書や単行本だろうと YouTube の動画だろうと note に続々と掲載される経験談の類だろうと、あるいは NewsPicks のような都内の成金リバタリアンの巣窟と思えるサイトであろうと、色々な人が色々なアドバイスとか提案を書いている。どういう検索をして集めたり、どう統計を取るかは好きにすればいいと思うが、ともかく毎日のように(それこそ外国も加えたら)夥しい数の「こうやったらいい」とか「こうすべき」という話が、僕らのスクリーンには続々と現れる。

でも、たいていの人はそういう膨大な数の提案へ滅多に従ったりしない。これを何年か前までは(誤解された意味での)Dunning-Kruger effect などと呼んでいたわけだが、いまでは効果の意味が誤解されているという指摘だけではなく、ダニング=クルーガー効果そのものが本当なのかどうか疑われていたりする。ともあれ、あほに限って他人の意見に従わず自分が正しいと思い込むというのが、ダニング=クルーガー効果であろうとなかろうと多くの人が一般人について解釈するときの定番である。でも、何かのチャンスがあれば一部の人は採用したり参考にしてくれるかもしれないという想定があって、多くの出版社や「メディア」と称する IT チンピラみたいな連中が、素人に素人考えを吹き込むような記事をクラウド・ワーカーのロクでもない連中に「執筆」させているわけである。

でも、僕がこれまで当サイトで「社会科学的なスケールで言って誤差ほどの効果しかない」と言ってきたように、そんな連中の提言とか中学生の読書感想文みたいなものが乱造されたところで、いったい何の役に立つのかという気がする。現に、いま述べたように大半の凡人は人の言うことなど参考にしない。なぜなら、自分のやったことや考えていることを反省しないのが凡人の特徴の一つだからだ。仮に、地球上の全ての人間が生まれつき物事を冷静に受け止めて正確に理解したり、自分がやったことを反省したり、別のよい考えや方法がないものかと希求するような生き物であったなら(いや、後天的であっても文化や生活態度において同じような態度や考え方が普及している社会や集団ばかりであったなら)、それが西暦0年に始まる何らかのトレンドだったとして、それから2,000年以上が過ぎた現在の人類はどうなっていただろう。何か、アニメにすら描かれないくらい理想的な社会が実現していた筈だと思えるだろうか。あるいは何かの原因で、人類は西暦2000年を待たずに滅亡していたかもしれないと言えるだろうか。確かな根拠はないが、僕は後者の見込みが高いと思う。

なぜなら、世の中の多くの制度や習慣というものは、凡人や無能な人間に最適化するように変わってゆくからだと思うからだ。為政者や一部のエリートが発案した当初は、それに見合う有能な人間とか理想的なエージェントを想定して制度や法律や商品などは起案されたり作られたり実行・施行すらされたりするわけだが、そのうち多くの人にとっては役に立たなかったり、「現実を反映しない」とか「現実に合わない」などと言われて改変されてゆく。その多くは、もちろん「骨抜きになる」と言われたりするわけだが、それは逆に言えば、多くの人の身の丈に合う制度となる場合もあろう。もし、是々非々だけで人がものごとを決めたり実行するような、敢えて言えばロボットみたいな人の生き方が良しとされるようになれば、恐らく1000年も経たないうちに、そういうことがやろうとしてもできない人々は次々に排除されてゆくだろう。たとえば高齢者。たとえば身体障碍者。たとえば LGBTQ。たとえば博士号を持ってない人(ぼくもそうだ)。かようにして、かくあれかしと都銀系アナリストやら元マッキンゼーやら MIT の学位持ちやら都内のインチキ・ベンチャーの社長やらが語るアドバイスに適合しない不合理・非効率が次々と政策や商取引などで無視されてゆき、彼らが活動するために必要な産業に従事する人材を生産担当と消費担当として確保する以外の人材、地域、国は全て政策上において無視されたり軽視されたり排除される。そういう社会の行く末が自滅的であることは、僕には明らかだと思える。

なぜなら、そこには「無謬性」という致命的な欠陥があるからだ。元マッキンゼーだろうと MIT の博士号をもっていようと、人は有限の能力しかない。したがって、それはつまり無謬性などありえないということと同義なのだ。人は、生きている間にどれほどのことを起こすかどうかはともかく、必ず過ちを犯す。そして、過ちを頑なに「想定外」だと拒絶したり、過ちをなかったものとして無視すれば、その "fragility"(柔軟性のなさ)の積み重ねが人や人の社会を自滅的な結果に導く。Nassim Nicholas Taleb が "antifragility" というアイデアを使って語ったように、人や人の社会がやることには不確実性が避けられない。これに対して柔軟に対処できない "fragile" な人や社会は、簡単に自壊してしまう(*)。しばしば、ありふれた言い方として「ガラスの心」などと言われたりするあれだ。凡人が才能のある人について、半分はやっかみや妬みで「あいつは天才だが打たれ弱い」なんてセリフを口にしたりするのがテレビ・ドラマや漫画の常套句だが、これは制度についても当てはまる。そして、僕自身が会社で運用している社内規程などについても、マネジメントの考え方として当てはまるのである。僕と同じような技術や知識や経験を想定したり、あるいは期待して、情報セキュリティとか個人情報の運用ルールを作ってはいけないし、そこへ社員を導くというプランですら危険である。もちろん、無能や馬鹿には適した処し方があるという意味ではなく(役員や社員で読んでる人がいるらしいから敢えて書くけど、そういう意味じゃないからね)、安全な業務とか適正な業務というものは、職能や職位や業務の目的に応じて、達成するべき範囲とかレベルに違いがあるのだ。そして、それを越えたところは当人の責任においてやることではなく、文字通りマネジャーの担当であり責任なのだ。こういう意味でも、組織には役割分担とか分業というものがある。

まるで他人が自分のコピーであるか、そうあるべきであるかのような提案を出して社会を導こうとする人々の意見に従うと、それはつまりそういうところへ人が同化するにつれて、皮肉なことだがその人は不要になるのだ。もっと簡単に言えば、みんなが「元マッキンゼー」だったら、マッキンゼーなんて会社は必要ないし、その価値もなくなるのである。

(*) タレブは『ブラック・スワン』という著作で有名になった人物だが、彼ほど科学哲学の議論を有効に通俗的な読み物へ応用できている人物は珍しい(書名に使われた "black swan" も科学哲学の議論に登場する)。日本とか言われている東アジアの文化的辺境国家で、クズみたいな本に「パラダイム」だの「反証可能性」だのと愚かな聞き書きを書いている二流の自然科学者とか物書きどもに比べたら、桁違いの素養だ。僕ら科学哲学の人間が、たとえば量子力学の話題を扱う場合には、最低でも修士レベルのテキストを5冊くらいは色々と読んでから扱うものだし、著作で言及するのが当たり前である。でも、日本の自然科学者が(罵倒するにせよ権威付けで引用するにせよ)科学哲学について語るときは、文献表などが掲載されている場合でも、せいぜい1冊か2冊ていどの、しかも村上さんが書いた通俗本などを読んでいるていどだ。明らかに、極めつけの無知無教養としか言いようがない学部レベルの素養で科学哲学の話を自分の議論に持ち出している。これを恥と思わないのが、日本で通俗書を書いている連中の、海外で Penguin などから popular science の本をを出している人々とは比べ物にならないクズっぷりなのである。この落書きでは凡人に最適化する方が好ましいし現実的であると書いているが、少なくとも日本の物書きみたいな馬鹿に最適化してはいけない。これが、凡人に最適化することを良しとしながらも、僕が権威主義を支持している理由である。

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