Scribble at 2021-09-26 11:21:53 Last modified: 2021-09-26 11:26:54

次に、ジェフリー・フェファーの『悪いヤツほど出世する』という本を手にしている。原著のタイトルは "Leadership BS" となっていて、この "BS" は、もちろん "bullshit" のことだから、そのまま訳すと「リーダーシップなんてクソ喰らえ」とでもなろう。さすがにこれではブログに掲載される釣りタイトルみたいだが、しかし「悪いヤツほど出世する」という訳が適切かというと、それもまた違う気がする。なぜなら、これではまるで「ヤクザに学ぶしかじか」のような露悪趣味と変わらないからだ。フェファーが議論しているのはリアリティ(もちろん、以前に彼の『事実に基づいた経営』という著書について評したように、飽くまでも彼にとっての「リアリティ」だが)であり、それが従来のリーダーシップ論に見られるような聖人君子の話ではないというだけのことだ。別に彼は狡猾に従業員を洗脳したり騙す「ワル」になれと言っているわけでもないし、しばしば言われることだが経営者に多いとされるサイコパス(他人の事情を無視したり、善悪の判断がつかない傾向があるとされる)として判断したり振る舞えと言っているわけでもない。

さて、僕は生意気な小学生として帰宅途中に阿倍野橋のユーゴー書店や旭屋書店といった大型書店に出入りしていた頃から、ビジネス書やビジネス雑誌が平積みされているのを店内でも眺めていた経験がある。そして、1980年代ころから盛んに「リーダーシップ」という言葉が雑誌の表紙や新刊本のタイトルに印刷されるようになったと記憶していて、それこそ織田信長に学ぶリーダーシップといった記事や、松下幸之助を神とあがめる人々の礼賛本、あるいは企業経営者による回顧録だのが続々と出てきていた。しかし、それと同時に「日本にはリーダーがいない」という話も新聞記事やテレビ番組などで見聞きする機会が増えたように記憶している。いわゆる「カリスマ経営者」というのはいるが、それは殆どが一過性の売上だけで注目されている人々にすぎず、その多くは簡単に言えばマルチ商法を悪用した詐欺集団だったり、〈腕力系〉営業マンの強引な勧誘で売上を延ばしていただけのことだった。確かに金というだけの目的で人が集まってきてもリーダーとは言えるかもしれないが、社員が経営者を崇拝までするかどうかは別である。ともあれ、リーダーシップを論じる本が数多く出てきたのも、リーダーが不在であるという状況に応じてのことだったのだろう。

しかし、それから40年近くが経過しても、いまだに我が国は「リーダー不在」と言われている。職位として企業の会長だとか内閣総理大臣に就任する人物はいるわけだが、どれもこれも小物としか言いようがない人々で、国のトップはセレブ家系のバカ息子か叩き上げの小役人だったりするし、企業経営者はチンピラ外国人か、つまらない社内政治だけで伸し上がったような俗物揃いときている。ベンチャーのトップですら、未熟なガキや博士号も持ってない経営コンサル崩れなどが多数を占めていて、都内の交友関係や金融業界との伝手だけで会社を上場させたような愚物ばかりだ。

1980年代から、いまや2020年代というのだから、新卒で就職した人が定年退職するくらいの期間になるわけだが、それだけの期間にわたってリーダーシップの本が(恐らくは何千冊と)発行され、ビジネス雑誌や新聞の記事も山ほど書かれてきたにもかかわらず、ほぼ全ての企業では採用・研修・人事考課に至る全てのプロセスでリーダーを育成したり評価する手法が全くと言ってよいほど確立されていない。また、大学や経営関連の特殊学校でも、経営学の講座でまともなレベルの教育が実施されている実例など「皆無」と言ってよいだろう。もちろん、リーダーたる経営者を研修や内部昇格で育てずにヘッド・ハントしても構わないが、採用するための評価方法もぜんぜん整備されていない。それもその筈で、アメリカのアイビー・リーグですら、フェファーが言うような状況だからだ。かつて居並ぶリーダーシップの議論を眺めてドラッカーは、リーダーに共通の個性や資質なんてないと断言したわけだが、しかし彼もリーダーシップは「学べる」とも言っておきながら、まともな手法を一つも提案したり確立できなかった。女子高生が登場するエセ小説や漫画や映画がどれほど東アジアの僻地で流行しようと、そんなものを眺めたていどで企業経営などできるものか。それが大人の常識というものだ。

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