Scribble at 2021-06-26 11:55:03 Last modified: 2021-06-26 16:34:55

かつて5年以上も前のことだが、会社で役職者を対象とした研修が実施されるようになったという経緯もあって、マネジメントなりリーダーシップに関する本を読む機会が増えた。そのため、rvws.work というドメインを取って、いわゆる「経営書」と呼ばれる本の書評サイトを準備していたのだが、色々とあって止めてしまった。ただ、現在もそれなりにマネジメントやリーダーシップにかかわる本は読んでいるし、経営に関わる色々な知見を貯めるために財務経理や労働法といった、ほぼ中小企業診断士試験のシラバスに相当する範囲をカバーしようと思っている。正直、いまの会社を勤め上げた後に他の会社でマネジメントの仕事に携わる可能性はゼロに等しいとは思うが、こうした知見は夫婦とか家庭とか地域社会とか友人関係にも応用できるはずであるから、残りの人生で無駄となるわけでもないだろう(通俗的な自己啓発本によれば自らの生き方にも応用できる。大したもんだが、それ、ただの「自己管理」とか「自制」やろ)。また、それらの読書や会社での経験を何らかの仕方で参考にしてもらえるコンテンツを残しておきたいとも思っているので、冒頭で述べたように単独のサイトとしては公開しないまでも、当サイトの記事として公開することによって、一人でも参考になる人がいれば良いと信ずる。

というわけで、個々のページでも最初に断り書きとして掲げる話ではあるが、個々の経営書を取り上げて記事にすると言っても、いわゆる書評ブログの記事とは以下のような諸点で違うと思うので、ご注意いただきたい。

まず第一に、取り上げる書籍の梗概は紹介しない。第一章には何が書いてあるとか、目次はどうでとか、そういう商品紹介の類は意図しておらず、取り上げる本が〈全体として何を言っているか〉ということも要約しない。どのような本にも力点なり要点を書いてある箇所があるだろうし、著者が何を言いたいのかという論旨はありうるが、はっきり言えばそれらの要点や論旨こそが他の内容と比べて重要であると言いうる根拠はない。寧ろ、著者が自覚していない論点とか議論の方が興味深いし価値があるという可能性もある。僕が経営書を読んできた経験だけで言うしかないけれど、得てして有名な経営書に限って、誰もが口にするようなフレーズとか議論、つまり人口に膾炙した内容に限って凡庸なのである(もちろん、人口に膾炙したから凡庸なのだと言っているわけではない。それではただの結果論であり、「みんな知ってることは、みんな知ってる平凡な情報だ」という同語反復でしかなかろう)。なぜなら、そういう議論や概念は多くの人々にとって〈分かりやすい〉ので、逆に言えばオウム返しに喋るだけで経営について何かを知っているかのような自己欺瞞を引き起こしやすい自己催眠の道具となりやすいからだ。しかも、そういう〈知的離乳食〉のような思想や議論は、色々な脈絡によって解釈が変わるような誤解を招きやすい曖昧な表現であることが多い。それゆえに、そういう知的離乳食と言えるような議論やフレーズは、ドラッカーの格言などが典型であるように、色々な分野で長いあいだに渡って何度も口にされるわけだが、その曖昧さゆえに色々な脈絡で適用できる曖昧さを「深い」と誤解する人も多く、それを振り回し続けたところで何の成果も上げられない企業人が後を絶たない。こうした知的離乳食をバラ撒く書籍の出版社にしても、そういう不甲斐ない企業人たちの実情を自己啓発ブームという脈絡において本人のせいにしておけば、続々と表装替えしただけの類書を出版し続けても、読み手は「じゃあ今度はこれを参考にしてみよう」と言って買い続けてくれるため、僕が指摘したような可能性を示さないどころか、定期的に(それこそ経営書に飛びつく20代後半から40代後半までの顧客層が一巡するくらいの年数で)「これまでの経営学は間違っていた」という売り文句の本を出版し続けて、何度でも市場をリセットするという愚劣な行為を繰り返す。ちょうど、20年おきくらいに「新進気鋭の」若手思想家や若手サブカル評論家が登場したり、数十年おきに「知の巨人」と呼ばれる俗物が日本の出版業界に登場するのと同じことである。

書評ブログとは異なる第二の点として、取り上げた書籍から抜き出した論点とかアイデアとか議論について、僕が実際に会社で適用してみた経験を紹介する。書評ブログの大半は、要するに会社のマネージャどころか会社勤めしたこともない大学生や自称ライターが「批判的読解」などと大学受験業界で言われる読書方法を使って書いている〈データ処理〉の結果にすぎない。そういうものこそ、機械学習と自然言語処理の技術によって、早急に自動処理のサービスを実用化してしまった方がよい業務であろう。もちろん自然言語処理や機械学習の技術がどれほど向上しても、或る本に書かれている内容を実際の企業経営に応用した結果や経験を生み出すことはできない。いわゆる「読書経験」とは、字面を追うだけでは成立しない。書物の字面を短時間で正確に記憶できるとしても、サヴァン症候群の患者に経営は語れない。それは、どれほど読書経験を積み上げても、実体験を何も伴わず文字から得た情報を組み合わせているにすぎない「編集工学」を騙る山師とか多くの自称読書家に、まともな思想を築く根本的なコンピテンシーがないのと同じことである。(誤解を避けるために書いておくが、僕は「経験」と「情報」を反対のように思っているわけではない。いわゆる「編集工学」と呼ばれている乱読家の盲言が思想の名に値しないのは、〈情報処理だけをやっている〉からなのではなく、経験という〈決定的な情報〉が欠落している未熟な情報処理だからなのだ。)

第三に、僕は原則として経営書とかビジネス本は繰り返して読まないことにしている。そもそも他に読むべき本が多いという事情もあるが(もちろん哲学の本も・・・たまには読む)、そのときに吸収したり自分の関心とか課題に結びついて何か発見が一つでもあれば、それだけで読んだ値打ちはあると割り切っているからだ(このような方針は、当サイトで公開している「他ならぬ凡人である僕の読書方針について」という論説に書いている)。もちろん、たいていの本は、それを読んでいる自分の年齢だとか、あるいは色々な経験のあるなしで気づけたり気づけなかったりする知識とか脈絡、そして自分が置かれている状況だとかによって、書かれてある内容をどう読み取るかが変わってくる。これは、読むのが『純粋理性批判』のような古典と呼ばれる書物であろうと、それとも『鬼滅の刃』単行本3巻であろうと原理的には同じである(もちろん、『日本*紀』のような紙クズにも言える。読み返せば、ああ、ここは気づかなかったが、別のウィキペディアの記事からコピペしてやがるな、と気づいたりするのだろう。しらんけど)。いずれにしても、ビジネス関連の本は一期一会というつもりで、それなりに真面目に読んでいる。そもそも「哲学」を専攻している人間だからといって、このような俗物的な本など斜に構えて読んでいると思われても困る。それなりにオールマイティな人間は思弁だけでなく実務にも対応できるものだ(科研費の申請ごとき事務作業で Twitter にごちゃごちゃと文句を言っているのは、しょせん実務において無能な・・・そういう人々でもプロパーとしては、せめて何程か有能であることを祈りたいものだが・・・連中にすぎない)。ということで、同じ本を読んでも別の箇所を重要だと思う人はいるだろうし、僕と同じ箇所に学んでも実際にビジネスの実務で応用してみた結果が違ってくる可能性はある。しかし、だからといって、「この本で本当に大切なことは別の箇所にある」とか、「この箇所を現実のビジネスに応用しても成功しない」などという批評は成立しない。それは、あなたにとって大切というだけの話かもしれないし、あなたにとっての現実というだけの話かもしれないからだ。僕ら凡人がビジネス本を読む目的は、自分の仕事にとってどう参考にすればいいのかを考えるきっかけを得ることであり、書かれてある箇条書きのとおりに実行して収益を上げるとか、駆け引きに勝つとか、昇進するとか、あるいは会社が上場するとか新しいサービスを思いつくとか、そんな魔術を自分にかけてもらって、自分がスティーブ・ジョブズの再来(と言えるほどのイカサマ師)になることが目的なのではない。

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