Scribble at 2020-04-04 11:22:31 Last modified: 2022-10-03 09:25:29

ウェブ・コンテンツだろうと紙面だろうと多くのタイポグラフィに当てはまる傾向なのだが、注釈を本文より小さなサイズの文字で表示するという組版上の習慣には、実は何の正当な理由もない。読みやすい文字の大きさとして本文の文字サイズを定義しているとすれば、それよりも小さなサイズになると文字が読み難くなるのは当たり前の事であり、それが注釈を表しているからなどという理由で読み辛くなっても良いという正当化になっていないのは、冷静に考えたら誰でもわかることだろう。本文だろうと見出しだろうと注釈だろうと、それが相手に向けられている何らかの情報を適正に表現するべき視覚表現である限り、何の正当な理由もなく相手に過剰な努力や思考や生理的な能力を要求するというのは、ユーザビリティやらアクセシビリティなどと言う以前に、人としてやるべきことではない。それはちょうど、生活困窮者に対して「100mを3秒で走れたら生活保護の対象として認めよう」と約束する官吏のようなものである。

そういうわけで、この MD も含めて色々と(本当の事情は別にあるのだが)コンテンツやタイポグラフィを見直しているところで、上記のような反省から、文字のサイズでコンテンツの意味論を視覚的に定義するという発想を、できるだけ追い出すことにした。もちろん、視覚障碍者に対してはマークアップで最初からコンテンツの論理構造なり意味論的な区別はできるように配慮すると、後はスタイルシートでどう定義するかという問題だけが残る。そして、注釈の文字サイズを小さくするという《慣行》(或る意味では「陋習」)は、読み易さという点でユーザに正当な理由もなく不利益をもたらすというだけではなく、そもそもそういう《慣行》を知らない人もいるという事実を無視している。《文字サイズの小さい文章は注釈を表す》というニュアンスを、実は理解していない人も意外に多く、そういう人の中には注釈として理解せずに、いわば脚本で独白を表す箇所であるかのように理解する人もいるのだ。もちろん注釈は、本文に対する《裏話》や《本音》や《ぶっちゃけ話》を書くためのものではない。

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