Scribble at 2018-09-08 08:49:11 Last modified: 2022-09-28 11:22:19

ニューズ番組で、スペインの造船所がサウジアラビアの戦艦建造を受注できなくなると1万人以上の雇用が失われるという話をしていた。他にもアメリカで起きているさまざまな差別とか政策上の失敗など、僕らが社会科学や社会思想の理論を学んでいる人々の住む国々は、だいたいどこであろうと日本と同じくらい実情は酷いものだ。恐らく人権思想として古典から現代的な議論まで世界をリードしてきたフランスであろうと、結局は世界中に植民地を作り、国内にアラブ人やアフリカ人はいるものの差別は常についてまわっている(フランスのカレー市にあった「ジャングル」なども一例だ)。アメリカに至っては、トランプのような人物が大統領にまでなるわけだから、いかに社会科学の議論が一部の地域や階級での与太話や空論でしかないかを物語っている。

これまで何度か指摘してきたことだが、僕は「人はできていないことをこそ、声高にスローガンにするものだ」という原則を支持している。イギリス人が「騎士道」などと言うのは、彼らがもともとヨーロッパの中心であるフランスから見て粗野・粗暴な田舎者だったからだ。一部の日本人が「和の心」などと声高に言うのも、それが伝統だったからではなく、昔から日本では夥しい内戦や暴動が繰り返されてきたからである。アメリカ人があれだけ PC だのフェミニズムだの平等だの "Black lives matter" と叫ぶのも、多くのアメリカ人は先進的な携帯を片手にヘイトスピーチを SNS で書きまくり、他人の人権など屁とも思わないギャングや荒くれ者や拳銃愛好者だからなのだ。世界中の国で社会思想が話題となり、あれやこれやと議論する学者や評論家やジャーナリストがいるのは、だいたいどこの国であろうとロクでもない連中が多くて、しかもその一部は権力を握っているという実情を反映しているのである。よって、「なんで黒人差別すら解決できないアメリカ人やイギリス人やフランス人の理屈を勉強しなきゃいけないのか」と思わなくもないが(笑)、仮にそれらに替えてウズベキスタン人や中国人やポリネシア人の社会科学者が言っていることを学んだところで、同じことでしかない。言わば、せいぜい同じことでしかないからこそ、色々なところで色々な人々が考えていることに学ぶ必要があり、フランス人が議論している社会思想だけを学ぶだけでは限界があるのだ。

それゆえ、僕には比較社会思想史とか比較法思想史のような研究分野の拠って立つ発想が理解できなかった。国や文化圏や言語や時代や階級や世代や経歴に応じて、それぞれの人や集団のものの考え方に一定の傾向があったり、自分が置かれている境遇に影響を受けやすくなるのは当たり前のことであり、そもそも思想と名の付く思考や認識の仕方に違いがあるのは当然である。したがって、カルトのように誰か一人だけの思想を唯々諾々と奉じるわけでもない限りは、常に複数の人物の論説や著作から学び、しかるにそれらを比較する必要があるのは学術研究の基本的な「実務」とすら言える。ようするに、個人や集団の思想を比較すること自体は社会科学者の素養であって、このような「実務」を欠いて社会科学をやっている人間など、少なくとも有能な学者には一人もいまい。確かに方法論なりメタレベルの研究としての「比較~学」とか「比較~論」の意義はあるが、その成果を見ると、デカルトとニュートンとか、ブルデューとデリダとか、要するに比較するのは常に思想史上のセレブばかりである。僕には、そういう比較は退屈だし、或る意味では無能でもできる仕事だと思う。社会科学の方法論として真に取り組むべきは、たとえばデリダと彼が生きていた当時のフランスの教育官僚とか、ニュートンと当時のイギリスの学校の数学教師とか、あるいは野村秋介さんと彼が生きていた当時の経団連会長とか、そういう比較はどうしたのか。いまや好事家の別名と化している社会学者の成果を待ちたいところだ。

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